Each day is a little life: every waking and rising a little birth, every fresh morning a little youth, every going to rest and sleep a little death. - Arthur Schopenhauer

2013年10月8日火曜日

読書『なぜメディア研究か―経験・テクスト・他者』ロジャー・シルバーストーン著

なぜメディア研究か―経験・テクスト・他者

ロジャー・シルバーストーンの『なぜメディア研究か』(原題:Why Study the Media?)を読みました。
彼はBBCのドキュメンタリーをはじめ、TVの現場で実務者としての経験を積みながら、アカデミックな世界においても「メディア論」という新しい学問領域のフロンティアで先鞭をつけ続けてきた権威です。
LSEの教授であり、同校大学院に設置されたメディア・コミュニケーション学科長でもあります。
(数多くの著書を上梓なされていますが、おそらく本著を脇に置くと、『テレビジョンと日常生活』(原題:Television and Everyday Life)が最も広く読まれている一冊かと思われます。
Television And Everyday LifeTelevision And Everyday Life
Roger Silverstone

Routledge
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訳者の一人でもある東大・学際情報学府教授の吉見俊哉先生がゼミでも輪読した、とあとがきで書かれているように、おそらく世界中でメディア論を学ぶ学生たちの必読書となっていると思われます。
文体が独特で、軽妙にリズムよく流れていきながらも、行間の背後から伝わってくるコンテクストには彼の実務者としての経験とメディア論を包括的に網羅したアカデミックな知が充溢しています。
あとがきから少し引用
本書は、メディアを学び、研究するとはいったいどういうことなのかを、深部から解き明かしていく。いわば本書はメディアについてのメディアであり、私たちの日常的実践が織りなす無数の媒介作用を、その媒介作用の中に身をおきながら研究するための手引きである。
本著のはじめの方で、シルバーストーン教授自身がこのように述べています。

ロジャー・シルバーストーン教授
プロセスとしての媒介作用についてのわれわれの関心は、私たちがなぜメディアを研究しなければならないかという問いの中心にある。私たちは、経験と表象の敷居を超えて意味が動いていくありように、注意を注いでいかなければならない。
アイザリア・バーリンがメディアを「経験の総体的なテクスチュア」と呼称したように、日々流れていくなかで、積層として形成される私たちの経験の集合体を造形する主体がメディアに他ならず、純粋培養される"経験(experience)"というのは、本来ないはずなのかもしれません。 
そういう意味で、ジュディス・バトラーらのパフォーマンス論、ドラマトゥルギーを再考すると、新たなる視座が拓けるような気がします。
行為や身振りや欲望によって内なる核とか実体という結果が生み出されるが、生み出される場所は、身体の表面のうえであり、しかもそれがなされるのは、アイデンティティを原因とみなす組織化原理を暗示しつつも顕在化させない意味作用の非在の戯れをつうじてである。一般的に解釈すれば、そのような行為や身振りや演技は、それらが表出しているはずの本質やアイデンティティが、じつは身体的記号といった言説手段によって捏造されている偽造物にすぎないという意味で、パフォーマティブなものである。ジェンダー化された身体がパフォーマティブだということは、身体が、身体の現実をつくりだしている多様な行為と無関係な存在論的な位置をもつものではないということである」『ジェンダー・トラブル
シルバーストーン教授の言葉を付言しておきます。
メディアによる記憶化は、媒介された記憶である。技術は記憶と結びつき、記憶に媒介する。われわれは生きていくためにさまざまな付録を、つまり過去という時間のビタミンを提供され続けているのである
マイケル・レーノフが指摘したように、メディアはいつだって叫び狂っています。

「私を信じろ、私が世界だ」と。
注意深く、私たちを説得しようとするメディアの狡猾な立ち振舞いを眺めてみると、そのメカニズムは通時的な様態をみせていることに気付かされます。たとえば、紀元前すでにキケロは『弁論家について』でこんなことを言っています。
強い印象は、一点の力説、明快な説明、事件があたかもそこで起きているかのように思わせるほとんど視覚的な表現によって作られる。それは出来事の叙述にも、意見の説明と増幅にも非常に効果的であり、雄弁と同じ程度に、増幅しようとする事実が重要であるように聞き手に見せることもできる。説明は、しばしばすばやい再検討や、実際に言ったこと以上の理解を促す示唆、あるいは明快さを求める簡潔性、品位の格下げやからかいなどによって相殺され...(以下、略)」
弁論家について〈上〉 (岩波文庫)弁論家について〈上〉 
キケロー,Cicero,大西 英文

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歴史にはパターンがあるといのは史家学者の見解の一つではありますが、メディアという観点からそれを考察するとき、経路は似たり寄ったりでも、時代毎に主体となる物象は常に変遷してきました。たとえば、リチャード・マッケオンの言葉を引くと
ローマ人のレトリックにおける共通の場は実用的技術と法律の知識に由来し、人文学のレトリックにおけるそれは芸術と文学から来ている。そして、私たち現代人のレトリックは、商業広告と計算機のテクノロジーの内にその共通の場を見出すのである。
まあ、この辺の話を突き詰めていくとポストモダンの思潮に行き着くことになりそうなんですが、(そういう意味でいうとメディア論自体は現代思想と親和性が高そうです)ジグムント・バウマンの社会におけるモラリティについてを最後に引っ張っておきます。 
モラリティは社会の産物ではない。モラリティは社会が操作する、つまり搾取したり、向きを変えさせたり、無理に押し込めたりするような、なにもかもなのである。裏を返せば、不道徳な行動、言い換えれば他者に対する責任を見放し、放棄する行いは、社会の機能不全の結果ではないのである。それはむしろ主観性の社会的管理という問題の位相で探求されねばならない、モラルというよりはインモラルな行動の発生のことなのである。
Modernity and the HolocaustModernity and the Holocaust
Zygmunt Bauman

Polity

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