Each day is a little life: every waking and rising a little birth, every fresh morning a little youth, every going to rest and sleep a little death. - Arthur Schopenhauer
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2015年3月6日金曜日

HAY DAYから学べること


人並みにゲームは好きなのですが、なんでか昔から「牧場物語」「どうぶつの森」のようなほんわか和む系のゲームが好きです。
そんなわけで、ダラダラ「HAY DAY」も始めてから、気づいたら50Lv.に達していました。(当然、課金はしてないです)


キャッシュフローの基本が学べる

まあこれは「牧場物語」も一緒なのですが、種を得て、それを植えて、収穫したものを出荷したり、市場で売ったりして、得た資金を元に牧場設備の拡充を図るもよし、市場で不足している作物や道具を買うもよし。

「HAY DAY」の強みはそのグローバルな人気からくる、ユーザーの多さ。
常時世界中のユーザーが相互扶助体制でお互いのファームを助け合う。
コレってちょっと商社みたくもあるんですよね。
たとえば友達の船の積荷で足りない品目がある。でも自分も持ってない。とすれば別の人の牧場で買い付け、調達したものを流してあげる。
「コミュニティ」機能もあるので、こうした地道な信頼関係が後々効いてきたりします。

徹底的な効率化でアウトプットの最大化を

作物を育てる際に指数関数を利用すれば、乗数的に収穫高が増えます。
結局、どこまで自分の手を動かさずに、アウトプットを自動化させられるか。
これってビジネスの基本でもあって、労働集約的な仕事でいくらインプットを増やしても、そこになんらかの自動化の仕掛けを増やしていかない限り、効率的とは言えず磨耗していってしまうのと一緒です。いわゆる不労所得に近いですね、時間にどこまでレバレッジをかけられるか。だから限られた農地に、いくらすぐに収穫できる麦を植え続けてもそれほど意味はなくて、収穫期までは時間がかかるけど市場ではそれほど出回ってないない作物の方がどうしても市場価値は大きくなるわけです。ただのソーシャルゲームですが、冷徹に市場原理が働いてるので、付加価値をつけたものしか売れないんですね。
ここから、小学生や中学生も、なにも経済学の教科書を見ずとも、需要と供給のメカニズムが簡単に分かるわけです。

ただし、そこは「農ゲーム」というそもそもの縛りがあるので、他プレイヤーとの差別化できる部分が限られているので、意識的に差異を生み出していかないと一向にレベルが上がりません。

たとえばプライシングで違いを出します。
基本的に最大値で設定する人が多いので、既視感をズラす意味で必ず価格はズラすようにします。(たとえば98とかゾロ目とか)
詳細は需要/供給に応じて調整します。

会計の一端が見える

とはいえ漸次的に資産は増えていき、ランニングコストはかからないので、固定資産にかかるような税金もなかれば減価償却もありません。

上記でいったように限られた農地で、なにを植えるのか、なんとなく頭でROIやKPIを置きながらやると、少し頭を動かす必要があったりします。
ようはダラダラ述べてきた効率化の項目を念頭に置きながら、PDCAを回すことなんですね。

2014年5月22日木曜日

「文化」は卵か鶏か


カルチュラル・スタディーズの旗手レイモンド・ウィリアムズの『文化と社会』を輪読する講義からの、自らの備忘録。

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この著書の中で、ウィリアムズ18〜19世紀の社会変動の中で、文化(culture)、民主主義(democracy)、産業(industry)、階級(class)、芸術(art)が生まれたとし、それぞれについて当世の著述家たちの論考や理論を検討しながら、仔細な議論を展開していきます。

1点だけ備忘録に残しておきたいのは、果たして上記のようなものは言葉が付与されてはじめて出現したものなのか、それとも言葉ができる以前から社会に存在したものなのかという点です。
もちろん両者は相互依存的なもので、一種の「卵が先か、鶏が先か」論争の焼き直しのような構図として捉えうることだし、一般的な解答としては、「当然、現象はまず存在した。そこに言葉が与えられることで、その現象がより明確に顕在化され、強化された」。
一歩踏み込んだ仮説として僕が思ったのは、そういった現象⇄言葉の動態的なプロセスの端緒には何らかの意図、もう少し踏み込んでいえば、明確に「先鋭化させることを」企図した戦略があるのではないかと思うのです。
言葉が与えられると、その現象は社会の中で認知度が増し、一定の地位を帯びてきます。
どれを例にとっても良いのですが、たとえば階級なら、真っ先に思いつくマルクス主義。
マルクス主義は資本家vs労働者(プロレタリアート)という構図を図式化することで、人々の間に問題意識を喚起します。
「芸術」という概念が存在しなければ、作品にも価値は見出されにくくなる。
芸術活動に従事する人々からすれば、当然、「芸術」という言葉・概念が社会に広く膾炙していた方が都合が良いわけです。

いずれにしても、この言葉が現実(=現象)を創りだすのか、それともその逆なのか、の議論はどの学問分野にも必然的に現れる問題だということを認識しました。
僕自身は社会学はまだ初学者です。
大学時代の専攻は国際政治でした。
国際政治でもこの議論は当然あがっています。
国際関係論の一分野で「社会構成主義(constructivism)」というのがそれです。
国際政治理論で主流をなすのは「現実主義(realism)」というものですが、その対抗理論として打ち出されたものでもあります。

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もっとことを分かりやすく、平易にすると、こういった論式はごく日常にも見られます。
たとえば「女子会」や「たこパ」。
きっと以前から、女の子だけが集まって飲み会をしたり、ご飯を一緒に食べたりして女子トークをする場というのはあっただろうけど、具体的な名称が与えられることで、よりその活動が活発化していくといったようなこと。
このように日常でよく見られることと、アカデミズムで滔々と議論が交わされてきたことは本筋で同じようなことというのはよくあって、こういった二つの感覚というか視点を忘れずに日常生活を送りつつ、勉強もできたらな、と常々思う次第であります。

2014年5月21日水曜日

テレビは「民主主義」を殺すのか?


1960年代の池田勇人政権時から国会のテレビ中継がはじまり、テレビと政治の持ちつ持たれつの蜜月関係は連綿と続いてきた。
小泉政権時にはポピュリズムの最盛期を迎え、政治は劇場化し、じっさいに郵政民営化法が成立するなどの実際的な変化ももたらしてきた。

朝日新聞の特別編集委員を務める星浩氏とメディア研究者の逢坂巌氏共著による『テレビ政治―国会報道からTVタックルまで』や鈴木寛さん『テレビが政治をダメにした』などを読んで思ったことを、主に民主主義とマスメディアの関係についてのメモを残しておきたい。
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民主主義のエレメントを抽出すると、国民主権、政治的有効感覚(efficacy)、透明性/情報公開など枚挙に暇がなく、収拾がつかなくなってくる。
そのため、ここでは日本におけるメディアと民主主義を考えたいので、たんに制度としての「代議制民主主義」に限定して備忘録を残しておきたい。

まずテレビ擁護派の言い分で筆頭にあがるのが、テレビによって「民主主義の裾野広がった」ということ。
良くも悪くも、人々が政治に少なからず興味や意見をもつキッカケになった。
「朝ナマ、報道ステーション、TVタックルなど」碓井広義氏が言うような「町場ジャーナリズム」を形成した。
それに対し、(鈴木寛さんなどが急先鋒)批判派はそれにより民衆の政治に対する知識が浅薄なものとなり、誘導されたやすい、敷衍すると「民主主義が脆弱になった」という主張をする。
これはどちらも正しくて、ようは民主主義の拡大/脆弱性はコインの表裏であるということ。

そもそも60年代にテレビが政治に介入していくなかで、送り手・受け手の両者による上記の共犯関係は運命づけられていたのではないかと思う。
ここで「代議制民主主義」というものの、原理を思い出してみる必要がある。
最大限に簡略化すると、日々労働に追われる国民は忙しく、専心的に政治に費やす時間・能力がない。だから、政治を専門にする人間、代表者=政治家に、国民の代表としてその責を委任しましょう。
ただし、つぎに問題になるのは、選挙、投票。
そういう代表を選ぶにしても、各候補には政策や主義に差異がある。
いったいどれだけの人が各候補、各政党のマニフェストなどを読み込み、慎重に精査したうえで候補者を決め、投票しているか。
とくに大学や大学院に行くと、忘れてしまいがちなのですが、すべての人が客観的に独自の論理・思考でそういう作業を行うわけではないということ。(おそらく大卒者でもそういう人はいると思います)
地方の教習所に行ったとき、地元の友達とひさびさに会って話すときなど、階層というものを痛感するし、自分の論理は社会においては切り取られたほんの一部分にすぎないことが分かる。
若者はツイッター、フェイスブックで情報収集する、テレビなど見ないし、信じない、とインターネットの力を声高に叫ぶ傾向がある。
参院選の三宅洋平さんや都知事選の家入さんなど、当選こそできなかったものの、ある程度の票数を集めていることを鑑みると、将来的にそういう潮流になるのかもしれない。
しかしながら、現状では票田を占めるのは中年、高齢者層。
そういう人にとって尚テレビはメインの情報収集源でしょう。
視聴率至上主義の論理で動くテレビの側からすれば、二項対立などできるかぎり図式化し、扇情的な内容にすれば数字がとれる。(参考⇒「ラディカルな発言をすること、それで飯を食べること」)
池上彰さんの情報番組が好評を博しているように、視聴者としてみれば肩肘張らずに、できるだけインスタントに政治的知識が得られるならそれに越したことはない。
これが上で述べた「共犯関係」の概要です。
思えば、テレビが登場する以前にもこういった共犯関係は存在しました。
この共犯が日本における現代民主主義に横たわっているのではないか、そう思うのです。

2014年4月15日火曜日

「グースハウス」と「テラスハウス」―"場"の多様化について


ぼくも毎週みてます、『テラスハウス』(やらせがどーとかは、とりあえずおいておきましょうよ)
一気にメンバーが入れ替わって、昨日の放送新鮮でしたね。

ユースト配信はなかなか時間が合わなくて、生では見られてませんが、たくさんのカバー動画で癒やしをもらってます『Goose house』
残念なニュースでいえば、設立当初から中心に居たリーダーのd-izeさんが脱退してしまうとのこと。

こういったメンバーの入れ替えはじめ、
考えてみたら、この二つのシェアハウスって共通点が多いと思ったんです。
まあ"シェアハウス"という「場」を基点に、どちらも活動しているので当たり前と言えばあたりまえなんですが。

シェアハウスにスポットライト当てると、テレビをはじめとしたエンタメだけじゃなくて、色んな可能性が生まれてくると個人的には思います。(ただ、そこにいち早く着目したフジのプロデューサーさんは凄いですよね。演出さんかな)

逆に『Goose house』をテラスハウス化させるのもおもしろくなるかも。
ふつうの生活がどうなってるのか気になっているリスナーも多数いると思うので。

世の中の潮流としては、シェアハウスのコンセプトが徐々に変わりつつあって、単なる共同生活というよりは、「同じ趣味趣向を持った人で集まろう」みたいなのが今流行ってますよね。
一番代表的なのは「ソーシャルアパートメント」ですが、ほかにもphaさんで有名な『ギークハウス』(ぼくはいつも新宿のギークハウスにお世話になってます)
スポーツ好きが集うという「ヒガコスポーツ」も面白そうです。
あとちょっと変わったものとしては、「企業寮をShare」しようという「月島荘」。
シェアハウスは都心が主ですが、家入さんが進めている「リバ邸」なんかは津々浦々にありますよね。(あ、でもそれで言ったらギークハウスなんてアフリカはじめ、世界展開しようとしてるんだった。笑)

"場"というものが多様化していくことで、新しい出会いがあり、そこから新たなムーブメントが生まれる。
そういった熱気がまた社会に還流していき、全体が盛り上がっていく。

「脱法ハウス」などの規制問題が立ち上がりましたが、それも一山越えた感があるなか、今後どんな動向になるのか関心があります。