Each day is a little life: every waking and rising a little birth, every fresh morning a little youth, every going to rest and sleep a little death. - Arthur Schopenhauer

2014年5月21日水曜日

テレビは「民主主義」を殺すのか?


1960年代の池田勇人政権時から国会のテレビ中継がはじまり、テレビと政治の持ちつ持たれつの蜜月関係は連綿と続いてきた。
小泉政権時にはポピュリズムの最盛期を迎え、政治は劇場化し、じっさいに郵政民営化法が成立するなどの実際的な変化ももたらしてきた。

朝日新聞の特別編集委員を務める星浩氏とメディア研究者の逢坂巌氏共著による『テレビ政治―国会報道からTVタックルまで』や鈴木寛さん『テレビが政治をダメにした』などを読んで思ったことを、主に民主主義とマスメディアの関係についてのメモを残しておきたい。
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民主主義のエレメントを抽出すると、国民主権、政治的有効感覚(efficacy)、透明性/情報公開など枚挙に暇がなく、収拾がつかなくなってくる。
そのため、ここでは日本におけるメディアと民主主義を考えたいので、たんに制度としての「代議制民主主義」に限定して備忘録を残しておきたい。

まずテレビ擁護派の言い分で筆頭にあがるのが、テレビによって「民主主義の裾野広がった」ということ。
良くも悪くも、人々が政治に少なからず興味や意見をもつキッカケになった。
「朝ナマ、報道ステーション、TVタックルなど」碓井広義氏が言うような「町場ジャーナリズム」を形成した。
それに対し、(鈴木寛さんなどが急先鋒)批判派はそれにより民衆の政治に対する知識が浅薄なものとなり、誘導されたやすい、敷衍すると「民主主義が脆弱になった」という主張をする。
これはどちらも正しくて、ようは民主主義の拡大/脆弱性はコインの表裏であるということ。

そもそも60年代にテレビが政治に介入していくなかで、送り手・受け手の両者による上記の共犯関係は運命づけられていたのではないかと思う。
ここで「代議制民主主義」というものの、原理を思い出してみる必要がある。
最大限に簡略化すると、日々労働に追われる国民は忙しく、専心的に政治に費やす時間・能力がない。だから、政治を専門にする人間、代表者=政治家に、国民の代表としてその責を委任しましょう。
ただし、つぎに問題になるのは、選挙、投票。
そういう代表を選ぶにしても、各候補には政策や主義に差異がある。
いったいどれだけの人が各候補、各政党のマニフェストなどを読み込み、慎重に精査したうえで候補者を決め、投票しているか。
とくに大学や大学院に行くと、忘れてしまいがちなのですが、すべての人が客観的に独自の論理・思考でそういう作業を行うわけではないということ。(おそらく大卒者でもそういう人はいると思います)
地方の教習所に行ったとき、地元の友達とひさびさに会って話すときなど、階層というものを痛感するし、自分の論理は社会においては切り取られたほんの一部分にすぎないことが分かる。
若者はツイッター、フェイスブックで情報収集する、テレビなど見ないし、信じない、とインターネットの力を声高に叫ぶ傾向がある。
参院選の三宅洋平さんや都知事選の家入さんなど、当選こそできなかったものの、ある程度の票数を集めていることを鑑みると、将来的にそういう潮流になるのかもしれない。
しかしながら、現状では票田を占めるのは中年、高齢者層。
そういう人にとって尚テレビはメインの情報収集源でしょう。
視聴率至上主義の論理で動くテレビの側からすれば、二項対立などできるかぎり図式化し、扇情的な内容にすれば数字がとれる。(参考⇒「ラディカルな発言をすること、それで飯を食べること」)
池上彰さんの情報番組が好評を博しているように、視聴者としてみれば肩肘張らずに、できるだけインスタントに政治的知識が得られるならそれに越したことはない。
これが上で述べた「共犯関係」の概要です。
思えば、テレビが登場する以前にもこういった共犯関係は存在しました。
この共犯が日本における現代民主主義に横たわっているのではないか、そう思うのです。

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