Each day is a little life: every waking and rising a little birth, every fresh morning a little youth, every going to rest and sleep a little death. - Arthur Schopenhauer

2013年3月28日木曜日

読書考―「本を読む」ということについて本気で考えてみる

ひとは、程度の差こそあれ、人生のある地点で読書をはじめる。
正確にいうと、本に引き込まれていく。(後の時点で、振り返ってみるなら、こちらの表現の方が適切な気がする)
あらためて、「本を読む」とはどうゆうことなのかについて考えを巡らせてみたい。
3パートにわけ、それぞれ切り口を変えてみたので、ひとつでも流し読みしてみてください。
なにか意見をいただければ、幸いです。



1. 時給1000円のアルバイターは資本主義下の豚なのか
読書についての話を始める前に、「貨幣」について考えておきたいと思います。
貨幣=お金、という単純な思考様式は成り立たないと気付いたのは、高校生のときにアルバイトを始めたときに遡ると思います。
まず、働く場においては基本的に2つの立場があります(すなわち、雇う側=資本家、雇われる側=労働者)
アルバイトとしてをしている僕は疑いの余地なく、「労働者」にカテゴライズされるわけです。
往々にして、両者の間にはゼロサム・ゲームのような緊張状態があります。
雇う側は、いかに労働者から最大限の労働を引き出せるか、労働者はいかに疲労を溜め込まずに仕事をこなすか。
ただ、圧倒的に有利な立場にあるのは「資本家」の方で、常に労働者に「クビ」というタグをぶらさげて脅すことができるし、労働条件の詳細を決めるのはあちらの立場になります。
たとえば、時給をわかりやすく1000円とすると、
どれだけ真面目に汗水流して働いても、資本家の目を盗みつつ怠惰に働いても、基本的に貰う給料は1000円で、おおきな変動がない。
そうなると、自分が1時間働くごとに頂く1000円という「貨幣」は、僕の1時間の労働が生んだ価値ではなくて、1時間という僕の人生(命の断片)を譲り渡すことによって発生しているのではないかと思うのです。
つまり、人間は生まれながらにして「寿命」という莫大時間という名の「貨幣」を、「お金」という別の貨幣に、そのときどきの状況・時分・手段において、交換しつつ生きている。
そもそも時間が貨幣であることに気付かなくては、後々、貨幣の浪費を嘆くことになりかねない。
そして、この二つの貨幣の最大の違いは、「時間」の方が比べ物にならないほどの価値を蔵している(invaluable)ということ。
お金は取り返せるけど、時間はもう戻らない。
時間→お金よりもお金→時間の為替の方がはるかにレートが高い。
そして、あらゆる場面で、若い時の方が「時間」が有する時価価値は高い。
ただ、単純に時給1000円のアルバイターが資本主義の下でもがく豚というわけではないと思います。
労働を強いられている間、たしかに肉体はその場に縛られている。
ところが頭の中、脳ミソ、自分の思考空間は自由なまま。
とりわけ、週6~7で働き通しているときに、マルクスの『資本論』を読むと、彼の言わんとしていることが、実体験として得心できる。(岩波の文庫版で9冊もあるのでチョー長いですが)
少なくとも、貨幣の二義性に逡巡する豚はなかなかいないのではないかと思うのです。
【参考】「17歳のマルクスから、就活生のあなたへ



2.咀嚼、消化、排泄、そして循環
よく友人で「本を読んでも、すぐに内容を忘れてしまう。だから読書をすることにあまり意味を見出せない」と言っている人がいます。
読書から引き出された知見を、いかに受肉し、自分の糧として血肉とするのか。
僕がときどき、こうやって思ったことを吐き出したり、読んだ本についてブログに書くのも、実はその受肉の一プロセスなのではないかと思いました。
人間は咀嚼し、食べた物を消化し、排泄する。
これはメタファーでもなんでもなくて、読書も映画もテレビのコンテンツから得た知見なり感想は、そのまま上のようなプロセスでアウトプットすることが必要なのではないかと思うんです。
ただコンテンツを受容して自分の中で退蔵するだけでは、お腹いっぱいになってしまうし、消化不良を引き起こしまうのではないか。そのうち、自動的に上書き処理がなされていき、薄い知見は霧散し、抹消されていく。
なら、自分の蓄積と整合しながら咀嚼して、自分の価値観を付与しながら加工、そして吐き出す(アウトプット)することが一番健康的なのではないかと思う。
この作業を通してはじめて、「言葉を手にしていく感覚」をおぼえると思うのです。
そして、僕のこういった稚拙な文章をみた人が、また彼/ 彼女の思想を付与し、それがまた流通していく。
このような「循環の渦」に自ら身を置くことで、成長できるのではないでしょうか。
こんなブログを書いているからなのか、よく「オススメの本」を聞かれることがあるので、その都度、なるべくその人に合ったような本をリコメンドするようにしているし、反対に「オススメの本」を聞くことも多いです、そうやって周りまわって行きながら、微量の「知」が集積されていくのかな、とも。



3. 「本を読む」ということは、「命」を差し出すことでもある
よく、聞く言葉として「自己投資としての、本は安い。だからお金に糸目をつけずに、どんどん本を買って、自分を高めよう」という言葉がある。とくに自己啓発本に多い。
自分としても、同意なのですが、本質はそれだけではないのではないかと。
①でも触れたように、「読書」に関しては2種類の貨幣二つともを投じなくてはならないと思うんです。
とくにハイコストなのは、「時間」の方。
超速で速読ができる人は話が別ですが、大部分の人にとっては新書などの薄い本を別として、普通まとまった時間がなくては1冊の本を読み切ることができません。
だからこそ、自分が読書家だということをいいことに、普段読書をしない人を批判するのは違うのではないのかとも思うわけです。読書には多くの時間を割かなくてはならないし、一度の人生限られた時間、どれほどのお金という「貨幣」を持っていたとしても、時間という貨幣には限界がある。
それをいかに振り分けるのかについて、強制することはナンセンス。
だから、読書が嫌いだという人の思念も尊重しなくては、と思うのです。
ある意味で、自分の与えられた人生(時間)の一部を輪切りにし、差し出した上で、やっと読書から知見を引き出すことができるわけです。
おおげさに言えば、命と引き換えに知を得るわけです。
そもそも、人は学びつつ、死へ近づいていっているわけで。

突然ですが、「本には引力がある」そう思うようになりました。
「僕らの興味は絶えずつくられていく」「僕らは出会ったものにつくられる」という思いがまずあります。
そして人との出会いと同じように本との出合いもセレンディピティの賜物ではないかと。
一人の人との出会いで人生が変わるように、一冊の本で変わる人生もある。
「引力」っていう表現もこのことで、一冊の本で価値観に多大な影響を及ぼすことがあるし(とくに思春期など、人間形成の発展段階においては)、ものの見方が変わること、質的な筆致にまで変化が及ぶことももちろんある。
そうゆう意味ではプラスの収穫(fruits)もあるし、リスクもある。
本には人を引っ張る(+-に)引力がある。
高校時代の担任の先生が、「Aという自分(主体)がBという本(客体)を受容した時に、Bに染まるでもなく、Aではね返すでもなく、Cという新しい価値を創造(create)することが重要なのだと」先日お会いした時におっしゃっていました。
もちろんそれは絶対的なこれまでの読書量の蓄積との兼ね合いにもなるわけですが、それに先行した独立した個としての「主体性」があると意識することが重要だと思いました。
(参考:約2年前に書いた先生と読書に関するエントリー「Sigur Rósと高校読書」)
そんなわけで、いまは柄谷行人を読み直しているわけです。

その他、読書が読む側と伝えたい側の「射影接続空間」としてインターフェイスとなっていることなど、時空を超えて、「知」に触れることを可能にしてくれていること
存在証明としての『卒論』」というエントリーの「敵は知の巨人ではなく自分自身」という項に思うところを記しました。

大きな時間軸のなかで、たった一人の個は泡沫でしかなく、最後は灰燼となる。
それを分かっていながらにして、人は本を読むし、本を書く。
きっとそれは、絶対的な刹那性を受け入れて尚、これまで滔々と受け継がれてきた「知」の清流に微力ながらも寄与したいという原初的な願望があるからこそ、なのかもしれません。

⇒「読書考2―残された時間のなかで、あと何冊の本を読むことができるだろうか?

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