Each day is a little life: every waking and rising a little birth, every fresh morning a little youth, every going to rest and sleep a little death. - Arthur Schopenhauer

2014年5月22日木曜日

「文化」は卵か鶏か


カルチュラル・スタディーズの旗手レイモンド・ウィリアムズの『文化と社会』を輪読する講義からの、自らの備忘録。

文化と社会―1780‐1950 (ミネルヴァ・アーカイブズ)文化と社会―1780‐1950
レイモンド ウィリアムズ,Raymond Williams,若松 繁信,長谷川 光昭

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この著書の中で、ウィリアムズ18〜19世紀の社会変動の中で、文化(culture)、民主主義(democracy)、産業(industry)、階級(class)、芸術(art)が生まれたとし、それぞれについて当世の著述家たちの論考や理論を検討しながら、仔細な議論を展開していきます。

1点だけ備忘録に残しておきたいのは、果たして上記のようなものは言葉が付与されてはじめて出現したものなのか、それとも言葉ができる以前から社会に存在したものなのかという点です。
もちろん両者は相互依存的なもので、一種の「卵が先か、鶏が先か」論争の焼き直しのような構図として捉えうることだし、一般的な解答としては、「当然、現象はまず存在した。そこに言葉が与えられることで、その現象がより明確に顕在化され、強化された」。
一歩踏み込んだ仮説として僕が思ったのは、そういった現象⇄言葉の動態的なプロセスの端緒には何らかの意図、もう少し踏み込んでいえば、明確に「先鋭化させることを」企図した戦略があるのではないかと思うのです。
言葉が与えられると、その現象は社会の中で認知度が増し、一定の地位を帯びてきます。
どれを例にとっても良いのですが、たとえば階級なら、真っ先に思いつくマルクス主義。
マルクス主義は資本家vs労働者(プロレタリアート)という構図を図式化することで、人々の間に問題意識を喚起します。
「芸術」という概念が存在しなければ、作品にも価値は見出されにくくなる。
芸術活動に従事する人々からすれば、当然、「芸術」という言葉・概念が社会に広く膾炙していた方が都合が良いわけです。

いずれにしても、この言葉が現実(=現象)を創りだすのか、それともその逆なのか、の議論はどの学問分野にも必然的に現れる問題だということを認識しました。
僕自身は社会学はまだ初学者です。
大学時代の専攻は国際政治でした。
国際政治でもこの議論は当然あがっています。
国際関係論の一分野で「社会構成主義(constructivism)」というのがそれです。
国際政治理論で主流をなすのは「現実主義(realism)」というものですが、その対抗理論として打ち出されたものでもあります。

社会構成主義の理論と実践―関係性が現実をつくる社会構成主義の理論と実践―関係性が現実をつくる
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もっとことを分かりやすく、平易にすると、こういった論式はごく日常にも見られます。
たとえば「女子会」や「たこパ」。
きっと以前から、女の子だけが集まって飲み会をしたり、ご飯を一緒に食べたりして女子トークをする場というのはあっただろうけど、具体的な名称が与えられることで、よりその活動が活発化していくといったようなこと。
このように日常でよく見られることと、アカデミズムで滔々と議論が交わされてきたことは本筋で同じようなことというのはよくあって、こういった二つの感覚というか視点を忘れずに日常生活を送りつつ、勉強もできたらな、と常々思う次第であります。

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