Each day is a little life: every waking and rising a little birth, every fresh morning a little youth, every going to rest and sleep a little death. - Arthur Schopenhauer

2014年5月8日木曜日

読書『アンダーグラウンド』『約束された場所で―underground 2』村上春樹著


1995年、オウム真理教により引き起こされた地下鉄サリン事件の被害者の声を吸い上げ、一冊のインタビュー本に編みあげた『アンダーグラウンド』、それから数年置いて追うように刊行されたオウム真理教信者側の声から成る『約束された場所で』(文藝春秋紙上では『ポスト・アンダーグラウンド』)

メディアという鏡を通して語られ、有象無象に一種の言説が形成され、構築されていくイメージ。
それらを排し、当事者たちの声に耳を傾け、プレインな文体で伝えられる事件当日のできごと、彼/彼女らの思想と人生。

「死は生の対極ではなく、そのうちにある」と『ノルウェイの森』で大事なモチーフとして語られる言葉は、彼の小説でもっとも際立ったテーマの一つである"システム"で働く"内側"と"外側"の論理にも通底するものだと思った。

システムというのは、社会の駆動力となっているフィジカル、またメタフィジカルな論理、装置を意味しているのではないかと思う。
それは思想家、哲学者の多くが剔抉しようとしてきたものであるし、それほど物珍しいものではない。
村上春樹自身、小説の中でもプロットの背骨に登場人物のセリフの端々にそういった"物語性"を滑りこませてきた。
フィクションのなかに限らず、彼自身のインタビュー集やエッセイの中でも折にふれて"システム"への言及は見られる。

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イェルサレム賞受賞時の「卵と壁」のスピーチや「ボストン、自分をランナーと呼ぶ、ひとりの世界市民から」と題されTHE NEW YORKERに寄稿された文からもそういった問題への意識はうかがい知れる。

『アンダーグラウンド』のあとがきで、その核心部へ触れているので引用しておきたい。
「こちら側」=一般市民の論理とシステムと、「あちら側」=オウム真理教の論理とシステムとは、一種の合わせ鏡的な像を共有していたのではないか。
もちろん一つの鏡の中の像は、もうひとつのそれに比べて暗く、ひどく歪んでいる。凸と凹が入れ替わり、正と負が入れ替わり、光と影が入れ替わっている。しかしその暗さと歪みをいったん取り去ってしまえば、そこに映し出されている二つの像は不思議に相似したところがあり、いくつかの部分では呼応しあっているようにさえ見える。それはある意味では、我々が直視することを避け、意識的に、あるいは無意識的に現実というフェイズから排除し続けている、自分自身の内なる影の部分(アンダーグラウンド)ではないか。私たちがこの地下鉄サリン事件に関してどこかで味わい続けている「後味の悪さ」は、実はそこから音もなく湧き出ているものではないだろうか? 
つまり、システムのうちにいる彼ら彼女らは共犯的に無意識的にシステムを構成しておる映し鏡であり、ひょんなキッカケでまったく逆の立場にあったかもしれない存在だということ。 
その意味で尊師と崇めたてられた麻原も、太平洋戦争下の軍本部も、ナチスのヒトラーも、システムに絡め取られた一人ということになる。
こういった"わたし"と"あなた"の立場の反転可能性について、たまたま読んでいたショーペンハウアー『意志と表象としての世界』(第三巻)でこのような記述があった。
苦しみを与える者と、苦しみを受ける者とは同一である。前者は、自分を苦しみを受けないですむと思いこみ、後者は、自分は罪を犯さないですむと思いこみ、それぞれ迷妄にとらわれている。これら二人の迷いの眼が豁然と開かれるなら、それぞれが、次のように認識することだろう。まず苦しみを与える側の人は、この広い世界中で、苦悶に悩みつつある一切衆生の中に自分は生きているのだ。自分に理性が具わっていれば、いかなる落度のせいかもわからないこれほどひどい苦悩を人々が背負わされて、いったいなぜこの世に生を享けたのか、これはいくら深く考えても虚しいことなのだ、そう認識するであろう。さらに一方、苦しみを受けた側の人は、この世で行われるすべての悪、あるいはかつて行われたすべての悪は、自分の本質を形づくっているあの意志から流れ出たことであり、これらすべての悪は自分の中にも現象しているのであって、そこで自分は、この現象ならびに現象の肯定を通じて、あの一つの意志から生じたありとあらゆる苦悩をわが身に引き受け、これを忍耐していくのは、自分もまたこの意志である以上は、至極当然なことなのだ、そう悟るであろう。 
こう所見を述べた上で、さらにショーペンハウアーはカルデロンという詩人の『人生は夢』からこういった象徴的な詩を引っ張り出す。
人間のこのうえなき罪は、人間が生まれたということにあるのだから。 
ぼくらは色々な物語の中に生きているし、人間は物語、"意味"と言い換えてもいいかもしれない、を必要とするいきものだ。
物語とはもちろん「お話」である。「お話」は論理でも倫理でも哲学でもない。それはあなたが見続ける夢である。あなたはあるいは気がついていないかもしれない。でもあなたは息をするのと同じように、間断なくその「お話」の夢を見ているのだ。その「お話」の中では、あなたは二つの顔を持った存在である。あなたは主体であり、客体である。あなたは総合であり、部分である。あなたは実体であり、同時にあなたは影である。あなたは物語を作る「メーカー」であり、同時にあなたはその物語を体験する「プレーヤー」である。私たちは多かれ少なかれこうした重層的な物語性を持つことによって、この世界で個であることの孤独を癒しているのである。
高度成長や冷戦の二極構造、大きな物語を失ったとき、人は新しい物語を求め彷徨う。
そのような中で「オウム」は空虚さにもがくテクノクラート系の若者にとって理想的な容れ物に映ったのだった。
そして『約束された場所で』に収録された河合隼雄氏との対談で触れられているように、純粋なものの集まりは最後はどこかで内破せざるを得ないのだと。
こういった個人個人の意志や意識から乖離して、肥大化していく集団意識、集合論理についてはもっと突き詰めて考えていく必要がありそう。
最後にふと思ったのは、この前の選挙で20代の田母神支持率が異様に高かったときに感じた薄気味悪さ。
どうしようもない、だけどどうにかしなきゃいけない問題。
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