Each day is a little life: every waking and rising a little birth, every fresh morning a little youth, every going to rest and sleep a little death. - Arthur Schopenhauer

2014年5月22日木曜日

読書『意志と表象としての世界』(Ⅰ〜Ⅲ)ショーペンハウアー著


「世界はわたしの表象である」―これは、生きて、認識をいとなむものすべてに関して当てはまるひとつの真理である。
「生を苦痛とみる」厭世思想家として世界中で滔々と読み継がれてきたショーペンハウアーの主著『意志と表象としての世界』を読了。
たしか最初に読んだショーペンハウアーの本は『孤独と人生』だった。
振り返ってみるなら、インドへの旅へぼくを駆り立てた思想の奥底にショーペンハウアーの影響は少なからずあったのだと思う。

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解説やショーペンハウアー自身の第1〜3版への序文のなかでも触れられているように、この本がこのような体裁でまとまるには紆余曲折があった。
ショーペンハウアーが激しく糾弾するのに対し、当時のドイツ哲学・思想界ではヘーゲル、フィヒテ、シェリングなどが中心にいて、ショーペンハウアーはつねに周縁に追いやられていた。
彼のペシミズムはより一層深化していき、だからこそ彼の思想の深度もまた増したと思われる。
たとえば第2版への序文ではこんなことを言っている。
哲学はもう久しい期間一般に、一方では公けの目的のために、他方では私的な目的のために、手段として使われざるを得なかったのではあるが、わたしはそんなことには妨げられずに、もう三十年以上も前からわたしの思想の歩みを追っかけてきた。それはほかでもない、わたしはそうせざるを得なかったからであり、一種の本能的な衝動に駆られて、そうする外には仕方がなかったからである。しかしこの本能的な衝動の支柱となっていたのは、誰か一人が真実のことを考え、隠れたことを照らし出しておけば、それはいつか必ず思索力をもった他の精神によって把握せられ、その人の心を惹きつけ、喜ばせ、慰めることになるであろうという確信である。
さて本著は、第一巻=認識論、第二巻=自然哲学、第三巻=芸術哲学、第四巻=倫理学という構成をとる。
では、それぞれの巻は独立性が高く、どこから読み始めてもいいのかというと必ずしもそうとは言えない。
ショーペンハウアーは第1版の序文のなかで、かようなことを言っている。
本書の中で提示した思想を深く会得するためには、この本を二回読むよりほかに手だてがないことは、おのずと明らかである。しかも一回目は大いに忍耐を要するが―本書では終りが始めを前提とするのとほぼ同じくらいに始めも終りを前提としている、つまり後の各部分が前の各部分を前提とするのとほぼ同じくらいに前の各部分もやはり後の各部分を前提としている―このことを読者の方が自発的に信じてかかって下さらねければ、こうした忍耐は得られないのではないかとわたしは思う。
まだ一度しか通読していない自分にとっては、深く議論を掘り下げたり、敷衍したりすることは彼もいうようにできそうもないことなので、とりあえずは特に自分の思想に共振したところ、示唆深かった箇所をそれぞれの巻から引っ張っておくという作業だけ行っておきたい。


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教義(ドグマ)に没頭するのは閑暇のある理性のやることである。行動は結局のところ教義に左右されず、わが道を行く。大抵は抽象的な格率に従うことなく、まだ言葉になっていない格率に従う。このような言葉になっていない格率を表現したものことそ、ほかならぬ人間の全身全霊なのである。むしろ理性の機能は一段下位にあたるもので、この機能はいったんきめた決心を守らせ、格率を突きつけ、一時の弱みに反抗させ、首尾一貫した行動をとらせることにある。
哲学の任務は具体的な認識を抽象的に再現することである。いいかえれば、継起的で可変無常な直観、一般に情という広範囲の概念のうちに抽象的でないとか明晰でないとかいうネガティブなレッテルで一括されているところのいっさいを、抽象的な明晰な知にいたるまで、つまり一つの永続不変の知にいたるまで高めること、これが哲学の任務である。 
これに関連するところで、フランシス・ベーコンの『学問の発達』より。 
「世界そのものの声をもっとも忠実に復唱し、いわば世界の口述するところをそのまま写しとった哲学のみが真の哲学である。それはまた、世界の模写と反射にほかならず、なにか自分自身のものをつけ加えたりせずに、ただひたすら繰り返しと反響をなすだけのものである」
身体というこの唯一の客観は本質的に他のあらゆる客観とは異なっていて、あらゆる客観のなかでこれのみが意志であると同時に表象である、ということである。これに反し他の客観は単なる表象であり、いいかえれば単なる幻影でしかない。したがって身体こそ世界中でただ一つの現実的な個体である。すなわち身体こそただ一つの意志の現象であり、かつ主観にとってただ一つの直接の客観なのである。 

幻灯の映し出す絵はたくさんあり、さまざまであるが、すべての絵が眼に見えるかたちになるのは、たった一つの焰のためである。この比喩と同じように、相並んで世界を満たし、相次いで事件としてせめぎ合う現象はさまざまであるが、しかしそのなかで現象するものはたった一つの意志であって、万物はこの意志が可視的になり、客観的になったものにほかならない。意志はあの変転推移のただなかにあってもあいかわらず不動である。意志のみが物自体である。 
現象は無限の差異性と多様性をそなえているが、物自体としての意志は一つである。意志は一つであるという認識だけが次のことについての本当の解明を与えてくれよう。自然界のすべての産物にみられる見違えようのないあの不思議な類似性 analogy 、すべての産物は同時に与えられてはいないが、結局同一テーマのヴァリエーションとみなされるあの同族的な相似性についてである。このことと同様に、世界のあらゆる部分と部分とのあの調和、あの本質的な連関、部分と部分とが段階を構成する必然性、われわれがたった今考察してきたあの必然性―こうしたことを明晰に深くつかんで認識すれば、すべての有機的な自然の産物の否定しようのない合目的性の内的本質と意義に対する、真実で十分な洞察がわれわれには開かれてくるはずである。 (⇒ここなんかは昔自分が書いたブログ「世界は一つのアナロジーから成るのかもしれないを思い起こしました)
われわれが生きかつ存在しているこの世界は、その全本質のうえからみてどこまでも意志であり、そして同時に、どこまでも表象である。この表象は、表象である以上はすでになんらかの形式を、つまり客観と主観とを前提とし、したがって相対的である。客観と主観というこの形式と、根拠の原理が表現している、この形式に従属したすべての形式とを取り除いてしまったあかつきに、さらにあとに何が残るかをわれわれは問うてみるなら、これは表象とはまったく種類を異にしたものであって、意志以外のなにものでもあり得ず、それゆえこれこそ本来の物自体である。 
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まず芸術哲学について。個人的には予想に反して、2巻がいちばん興味深く読めた。
きっと再読するときには、違う箇所や巻に興味を持つとは思うのだけれど。
純粋に後天的(アポステリオリ)には、つまり単なる経験だけからでは、いかなる美の認識も可能にならないであろう。つねに美の認識は、先天的(ア・プリオリ)である。それはわれわれにア・プリオリに知られている根拠の原理の形態とはまったく違った種類の認識ではあるが、少なくとも部分的には、美の認識はア・プリオリなのである。
人間の美とは、意志の認識可能性の最高の段階における意志の完全な客観化である。  
真の詩人の叙情詩のうちには、人類全体の内心が写しとられ、過去、現在、未来に生存する幾百万の人間がいつの時代にもくりかえし出会っていた似たような境涯で感じたこと、またこれからも感じるであろうことは、真の詩人の抒情詩のなかに、適切な表現を得ているといえる。幾百万の人間が置かれてきた境涯は、またこれからも休みなく繰り返され、人類そのものと同じように恒常的な境涯としてありつづけ、つねに変わらぬ同じ感情をよび起こすものであるから、真の詩人の叙情的作品は、千万年を貫いて真実で、感化を与え、またつねに新鮮である。なんといっても詩人とはそもそも普遍的な人間のことだからである。いずれかの人の心を動かしたこと、いずれかの境涯で人間の本性から生じたようなこと、いずれかの場所で人の胸に棲みつきしだいに大きくふくらんでいったこと―これらはすべて詩人のテーマであり、詩人の素材である。 
歴史、地域を超えて人々の心を打つ作品、言葉、詩。その普遍性。 

仏教にも傾注していたショーペンハウアー。
脚注にもヴェーダなどからの思想的影響が色濃く現れている。
たとえば、ヴェーダより、
人が死ぬと、その人の視力は太陽と一つになる。その人の嗅覚は大地と、味覚は水と、聴覚は大気と、言葉は火と一つになる。

わたしの見解では意志こそ第一のもので、根源的なものであって、認識はあとから意志に単に付け加わったものにすぎないのであり、意志の現象にその道具として帰属しているものが認識である。それゆえいずれの人間も、そのあるがままの相は、意志からこれを得たのであって、意志の性格が根本であり、意欲はその本質の根底をなしているからである。これに認識が付け加わるにつれて、人間はだんだんに経験を重ねていくうちに、自分が何であるかをやがて知っていき、すなわち自分の性格をわきまえるようになっていくだろう。つまり人間は、意志の結果として、また意志の性能に応じて、自分を認識するのであって、古いものの見方にもあるように、認識する結果として、また認識に応じて、なにかを意志するというものではそもそもない。 
すなわち人間は認識したものを欲するのではなく、欲したものを認識するということ。
享楽であれ、名誉であれ、富であれ、学問であれ、芸術であれ、美徳であれ、それらのいずれかを求めようとする一定の努力は、われわれがその努力に関係のないあらゆる要求を捨てて、また他のあらゆるものを断念したあかつきにのみ、ほんとうに真剣に、そして上首尾に追求することができるものなのである。
漠然と抱く将来への不安や、ちょっと大仰だけれど就活へのアドバイスにもなるんじゃないかと思った箇所として、
単に、やってみたいという意欲があるとか、やればできるという能力があるだけではまだ不十分であって、人間は自分が何をやってみたいかと欲しているかを知っていなければならないし、やれば何ができるかを知っていなくてはならないのだ。かくてはじめて彼は性格を示すことになろうし、そのあとでようやく彼はなにか正当なことを成し遂げることができるであろう。そこに到達するまでには、彼には経験的性格の自然な帰結がそなわっているとしても、まだ無性格である。で、彼は大体において自分に忠実な人で通し、自分の魔神(デーモン)に引かれつつ、おのが進路を一目散に走り抜ける人に相違ないとわかっていても、それでも彼は真一文字の線を描くことはなく、震えた不揃いな線を描き、動揺したり、横にそれたり、後戻りしたりして、後悔と苦痛のたねを蒔くことになろう。こうしたことはすべて、人間におこない得ること達成し得ることは大なり小なり多数あることを現に目前にしていながら、そのなかで自分にだけ適するものは何であるかを彼が知らないために起こることなのである。(さらに過去に書いたブログで関連がありそうなものとして、「17歳のマルクスから、就活生のあなたへ」「就職、進学、そして生きていく事」)
満足はつねに新しい努力の起点であるにすぎない。努力がいたるところで幾重にも阻止され、いたるところで戦闘しているさまをわれわれは目撃する。かくて、そのかぎりでは努力はつねに苦悩である。努力の究極の目標というものはなく、それゆえ苦悩にも限度や目標はない。 
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そして倫理学へ。
度外れた歓喜や激しすぎる苦痛というこの二つを避けることができるためには、われわれは休みなく事物の全体的な連関を完全に明瞭に見渡して、それらの事物が帯びていて欲しいと望むような色彩であればこれを実際に自分の方から事物に押しつけるようなことをしないよう、辛抱強く警戒しつづけるだけの自制心を有していなくてはなるまい。
長いですが、本質的かつ大事な箇所なので。 
根拠の原理にとりすがって前へ進み、個々の事物にしばられているこのような認識―これを超越し、イデアを認識し、「個体化の原理」を突き破って見ている人、現象の諸形式などは物自体にとって関係がないということを自覚している人だけが、永遠の正義を理解し、把握する人であるだろう。さらにまたこのような人だけが、この同じ認識の力を借りて、徳というものの真の本質を理解することができるただ一人のものであり、徳の本質については当面の考察とつないでやがてわれわれに解明されることと思う。 つまり今述べた認識に達している人は、意志こそはあらゆる現象の即自態 das An-sich なのであるから、他の人々にふりかかる苦しみもわが身のこうむる苦しみも、悪も禍も、現れ出る現象はたとえまったく異なった個体として成立し、たとえ遠い時間と空間によって距てられてさえいるのだとしても、それでもつねに、ただあの唯一同一の本質にのみ関わりがあるのだということを明瞭に知るにいたるであろう。彼はまた、苦しみを課する人と苦しみを耐えねばならない人との差異はしょせん現象にすぎず、物自体―この二人のいずれのうちにも生きている同じ意志―にはそういう差異は関わりがないことを見破っている。こうした場合、二人のうちに生きている同一の意志は、意志への奉仕にしばりつけられている認識に欺かれて、意志は自分というものを見誤り、その現象の中の一つにおいては幸福を高めることを求めるかと思うと、もう一つ別の現象においては大きな苦悩をこうむらせたりして、こうして激しい衝動に駆られ、意志はわれとわが生身の肉を噛み砕きつつ、しょせんつねに自分自身を傷つけているにすぎないのだということを知らない。こんな風にして、意志はおのれの内部に包蔵する自己自身との抗争を、個体化という媒介を通じて表面にあらわす。
哲学とはなにか、かくあるべきかは常にショーペンハウアーの念頭にあるように思われる。 
世界の本質全体を抽象的に、一般的に、明瞭に概念のかたちで再現し、かくて世界の本質全体が反映している模像として、理性の永続的で不断に用意された概念のうちにこの世界の本質を託すること、これこそが哲学であり、哲学とはこれ以外のなにものでもない。
ショーペンハウアーの厭世観、ペシミズムがなぜ人々の心を掴んで離さないのか。
きっとそこには絶望を超えたたえぎる生命感が満ち溢れているからではないだろうか。
この世界の掲げ得る最大にして、最重要、かつ最有意義なる現象とは、世界を征服する者ではなしに、世界を超克する者である。世界を超克する者とはすなわち、真の認識を開き、その結果、いっさいを満たしいっさいの中に駆動し努力する生きんとする意志を捨離し、滅却し、そこではじめて真の自由を得て、自らにおいてのみ自由を出現せしめ、このようにして今や平均人とは正反対の行動をするような人々、そのような人々の目立たぬ寂静たる生活振舞い以外のなにものでもじつはない。 
くわえて、 
彼の眼差しがいちいちの個別的な苦しみから普遍的な苦しみへと高められていって、彼が自分の苦悩を全体の単なる範例にすぎないとみなし、倫理的な点で彼が天才となって、一つの事例は百千の事例に当てはまるものであるという風に考え、こうしてこの生の全体が本質的な苦悩であると把えられ、生の全体が彼を諦念へと導くにいたったとき、そのようなときにはじめて、彼はほんとうに尊敬に値する人物として立つことができるようになるのである。
最後に短い引用を、第1版への序文の最後から。
しかし人生は短いが、真理は遠くまで影響し、永く生きる。さればわれわれは真理を語ろう。(1818年8月、ドレスデンにて誌す) 

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