Each day is a little life: every waking and rising a little birth, every fresh morning a little youth, every going to rest and sleep a little death. - Arthur Schopenhauer
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2015年8月5日水曜日

読書『100の思考実験: あなたはどこまで考えられるか』ジュリアン バジーニ著


思考実験とはいえど、『頭の体操』シリーズのような頭を柔らかくして、トリッキーな解を導き出すといった本ではなく、哲学や倫理など古来から考え続けられてきた”答え”のない問いを正面から考えてみようといった思想寄りの本です。
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そういう意味ではサンデルの『これからの「正義」の話をしよう』に近いですし、実際にかの有名な「トロッコ問題」なんかも取り上げられています。
これからの「正義」の話をしよう (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)これからの「正義」の話をしよう (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)
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「テセウスの船」「水槽の中の脳」「ギュゲスの指輪」はなど広く知られる思考実験を一つ一つ吟味していきます。
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2014年1月4日土曜日

読書『理性の限界』『知性の限界』『感性の限界』高橋昌一郎著


國學院大學教授・高橋昌一郎先生の講談社現代新書の「限界」シリーズ3冊を一気通読。
出版順序でいうと、「理性」→「知性」→「感性」ということになるのですが、僕が初めに手にとったのは『知性の限界―不可測性・不確実性・不可知性』でした。
読む順番はべつにランダムで構わないと思います。

1冊手に取ったら、続けざまに続編に触手を伸ばさざるをえないこと請負いです。

おそらく読者の知識量にも依るとは思うのですが、科学や哲学、自分のなかにバラバラに散逸していた知識の破片がパッチワークのように、滑らかに繋がっていく感覚。
継ぎ接ぎだらけで体系性の欠如した知識系に秩序がもたらされていく感覚。
知的好奇心の水平が一段階上がる感覚。
(小飼弾さんもそれぞれブログで紹介されてましたね⇒理性、知性、感性)

あえてこの本の中に二項対立を持ち込むなら、広義の"科学"vs形而上学を含む哲学ということになると思います。
僕の読書遍歴からいっても、間違いなく自分は哲学よりの人間なので、自分の哲学・思想系の思索のストックを科学的見地から照らし返してみたときに、一気に視界が開けたというか、支え棒が取れたような気がしました。

以下では各書の中で印象に残った箇所や言葉を紹介しつつ、考えも拾い置きしておきます。

理性の限界 不可能性・不確定性・不完全性 (講談社現代新書)理性の限界 不可能性・不確定性・不完全性
高橋昌一郎

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シリーズの初刊となる「理性」はおそらく3冊の中でも最も難度が高い内容ですが、それでも新書に相応しく専門外の人間でも読みやすい砕かれた文章となっています。
高橋先生の広範にわたる知識に瞠目するのはもちろん、良質なライターとしても稀有な科学者であることは間違いないと思われます。

いつだったかこんなツイートしてましたが、高橋昌一郎先生も間違いなくその一人でしょう。


アインシュタインのかの有名な「E=mc²」方程式に関して、あらためてこのごくごく短い式が世界、人類に与えた影響を再確認。
相対性理論は、時間と空間ばかりではなく、質量やエネルギーの概念も根本的に変革しました。アインシュタインの有名な方程式「E=mc²」は、物体の質量に光速度の二乗を掛けた結果がエネルギーと同等であることを示しています。原子力発電所では、ごく微量のウランの核分裂反応を利用して、膨大な原子力エネルギーを取り出しているわけですが、質量が膨大なエネルギーを秘めているという発想も、相対性理論に基づくものです。
科学や宗教、哲学、それぞれの領野の泰斗がぶち当たった理性という壁。
分野にとらわれずに多くの実例を上げてらっしゃるのですが、あえてパスカルの『パンセ』の引用だけひいておきます。
「理性の最後の一歩は、理性を超える事物が無限にあるということを認めること」
知性の限界 不可測性・不確実性・不可知性 (講談社現代新書)知性の限界 不可測性・不確実性・不可知性
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シリーズを通してゲーデルの不完全性定理、アロウの不可能性定理が重要なキーファクターとなっていきますが、むしろ脇道から矢を放っていくニヒリスティックなファイヤアーベントの視座が僕には響きました。
「方法論的アナーキズム」を唱道した彼がポパーの『果てしなき探求』に対置させて発表した『暇つぶし』はその極致だと思われます。


あとは誰しもが考えたことがあるであろう、決定論と自由意志論の議論。
僕も子供の頃から漠然と、だけどずっとしつこく考え続けてきたことです。
一級の科学者や哲学者が考えてきた蓄積を体系的に把握できたのは嬉しかった。
「目的論的証明」とインテリジェント・デザインに際して、18世紀のイギリスの神学者ウィリアム・ペイリーが草原で拾った腕時計、虫や植物を例に喩えながら考察した『盲目の時計職人』の話は誰もが一度は目を通し、沈思してみる価値のある論究ですよね。

とまあ徹底的に決定論について考えているところで、ノーベル賞を受賞した物理学者スティーヴン・ワインバーグのこの言葉をポッと紹介されちゃうわけです。
「宇宙が明確になるにつれ、宇宙に意味がないこともますます明確になってくる」
感性の限界 不合理性・不自由性・不条理性 (講談社現代新書)感性の限界 不合理性・不自由性・不条理性 (講談社現代新書)
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現時点で最終刊となっている「感性」は前2著と比べ、若干趣向が異なります。
以前、科学的な見地から批判的視座を交えつつ考察していくのですが、議論の中核を占めるテーマが愛、自由、死などより根源的な形而上学的なトピックなのです。
そういう意味では読みやすく、読みにくいと言えるかもしれません。

個人的には「形而上学的反抗」を取り巻くカミュ=サルトル論争の項などにも新しい発見があったのですが、やはり最後はファイヤアーベントの科学への見方を紹介して閉じましょう。
「(科学は)最も新しく、最も攻撃的で、最も教条的な宗教的制度である」

2013年8月5日月曜日

読書『物語の哲学』野家啓一著

物語の哲学 (岩波現代文庫)

東北大名誉教授(専門は科学哲学)の野家啓一さんの『物語の哲学』を読みました。
そもそもこの本を手に取ったのは、東大のあるゼミに見学というか参加したときに、ディスカッションで出てきた「時間は流れるのではなく、積み重なる」という野家先生の議論が出てきたことで、興味を持ったからでした。
ちなみにこの時間の"積時性"に関しては第6章で一章を割いて、考察がなされています。

科学哲学を専門にしている野家先生がなぜ物語論(ナラトロジー)なのか、もちろん確固たる理由があります。あとがきを引いてみます。
私自身の「物語り論(ナラトロジー)」はむしろ哲学における「言語論的転回」から触発されたものであり、直線的には新田義弘の論文「歴史科学における物語り行為について」に示唆を受けて、私の専門分野である言語哲学(特にウィトゲンシュタインの言語ゲーム論とオースティンの言語行為論)と科学哲学(特にクーンのパラダイム論とクワインのホーリズム)の延長線上に構想されたものであった。
科学哲学、分析哲学、言語哲学など、"哲学"がフォーカスする諸領野は多岐にわたるわけですが、言語論的転回が迫った変化はそういった領域を横断的に貫く一大事であったということでしょう。もちろん実証的な歴史学などもそれを免れることはなかった。 

そもそもヨーロッパ系の言語でが、「歴史」と「物語」はギリシャ語の「ヒストリア」に由来する同根の語にほからないというんですね。
英語では後に"history"と"story"とに分化してそれぞれ「歴史」と「物語」の意味を担うことになったが、フランス語やスペイン語やイタリア語では今でも両者に同じ語が当てられていることはよく知られている。
この本でも科学哲学や実証歴史学など、特定の分野にフォーカスして考察を進めるというよりは、章ごとに領域をスライドさせながら、「物語論」の全貌というか核心を彫塑していこうとするところに主眼が置かれています。 

たとえば、<歴史哲学をめぐる6つのテーゼ>
①過去の出来事や事実は客観的に実在するものではなく、「想起」を通じて解釈学的に再構成されたものである。[歴史の反実在論] 
②歴史的出来事(Geschichte)と歴史叙述(Historie)とは不可分であり、前者は後者の文脈を離れては存在しない。[歴史の現象主義] 
③歴史叙述は記憶の「共同化」と「構造化」を実現する言語的制作(ポイエーシス)にほかならない。[歴史の物語論] 
④過去は未完結であり、いかなる歴史叙述も改訂を免れない。[歴史の全体論(ホーリズム)] 
⑤「時は流れない。それは積み重なる。"Time does not flow. It accumulates from moment to moment" [サントリー・テーゼ] 
Cf. マルクス「五感の形成はいままでの全世界史の一つの労作である」『経済学・哲学草稿』
⑥物語えないことについては沈黙せねばならない。[歴史の遂行論(プラグマティックス)]

W・V・O・クワイン

こうした歴史哲学と科学哲学をまったく相容れないものとして、乖離した形で捉えがちなのですが、クワインのホーリズムに依拠した科学観では、かなりの部分で通底した捉え方が演繹されるんですね。たとえば『論理学的観点から』で以下の記述があります。
地理や歴史といったごく普通の事柄から、原子物理学やさらには純粋数学や論理学に属する最も深遠な法則に至るまで、われわれのいわゆる知識や信念の総体は、周辺に沿うところだけが経験と接触する人口の構築物(man-made fabric)である。すなわち、言い方を変えれば、科学全体はその境界条件が経験であるような力の場(a field of force)のようなものである。
そもそもこの書物を手に取った理由でもあった第6章(時は流れない、それは積み重なる―歴史意識の積時性について)について簡単に紹介というか、素描しておこうと思います。 

【1節:知覚的時間と想起的過去】
そもそも「時は流れる」という一般的な時間知覚の手法はどこに源流があるのか。
それはきわめて身近なものである。たとえば、「川の流れ」これは物体の位置移動によって時間の経過を表象するという意味で「運動学的比喩」と呼ぶことができる。
野家先生は特にフッサールの知覚的現在「過去把持―原印象―未来予持」に依拠してさらに深く考察していきます。(Cf. 『内的時間意識の現象学』)

エドムント・フッサール

【2節:非連続の連続】
今節では西田幾多郎などの議論をみながら、継起する出来事の非連続性と連続性の「矛盾の統一」=「非連続の連続」を省察する。
想起は連続的なビデオ画像ではなく、非連続的な出来事のスナップショットなのである。
過去の出来事は知覚的現在の下層に活性化可能な形で「沈澱」しているのだと言ってもよい。しかし、その連続性は「流れ」の連続性ではなく、「積み重なり」の連続性なのであり、むしろ「非連続の連続」と言うべきものである。
歴史家にとってのカノンともいうべき通時的整合性とは、堆積した時間の地層の間の整合性にほかならない。それゆえ歴史的時間は「流れ去る」という運動学的比喩ではなく「積み重なる」という地質学的比喩によって捉えられなければならない。それは均質的に流れる物理学的時間ではないのはもちろん、過去把持の連続性に基づく現象学的時間でもなく、むしろ重層的に堆積して地平の融合をもたらす「解釈学的時間」と呼ばれるべきものなのである。 
【3節:八分半前の太陽】
3節では大森荘蔵の『新視覚新論』と中島義道の『時間論』の議論を対置させる形で、地質学的比喩の前に立ちはだかるアポリアである「八分半前の太陽」を検討していく。


一応、以下に同アポリアの説明を付記しておきます。
太陽から発せられた光は、光速度が有限であるため、地球上のわれわれに知覚されるまでに八分半の時間を要することが知られている。すると、今現在われわれに見えている太陽は、八分半前の太陽ということになるだろう。今現在の太陽の真の位置は、知覚されている太陽の西方に約2度ずれているのであり、今は目にすることができない。今現在の太陽を知覚するためにはさらに八分半待たねばならないのである。すると、われわれは現在「過去の太陽を見ている」ということにならざるをえない。これは言うまでもなく、過去は過ぎ去ってもはや現前せず、想起されうるのみだ。という基本前提に反している。「過去」が「今現在」に露出しているというパラドックスである。
【4節:物語り文と重ね描き】
今節では野家さん自身の見解が呈示されていく。
八分半前の太陽=理論的構成体(theoretical entity)として捉え返すのがその方策。
 「八分半前の太陽が今見えている」という文は、「八分半前に太陽から光が発せられた」という理論的出来事と「その太陽が今見えている」という視覚的出来事とを連関させる物語文なのである。
われわれは時間的に隔たった二つの出来事を「物語り文」を通じて重ね描いているのであり、そこには矛盾のかけらもない。その意味で、物語り文は「歴史的重ね描き」の装置なのである。 
【5節:歴史的過去と「死者の声」】 
植村恒一郎『時間の本性』にヒントを求めながら、最終節となる本節で、時間の"積時性"の根幹を物語論から捉えた上で、その核心を開示する。
体験的過去と歴史的過去との断絶を橋渡しするのは、ほかならぬ物語り文である。物語り文は基本的には歴史的過去に属する二つの出来事を結びつける歴史記述の文章形式であるが、それは同時に知覚的現在、想起的過去、歴史的過去をも相互に結びつけることによって、それらの間の懸隔を埋め、統一的な歴史的時間を形作る働きをする。いわば歴史的時間は物語り文の中に折り畳まれているのであり、そうした物語り文のネットワークが「積み重なる」重層的な時間を形成しているのである。したがって、地質学的比喩によって語られる歴史的時間は「解釈学的時間」であると同時に「物語り論的時間」でもあると言うことができる。
以上までが6章の大まかな骨子で、最終章となる7章では <物語り行為による世界制作>という最終章に相応しいダイナミックかつ野心的な考察が加えられる。
歴史哲学をめぐるテーゼの6つ目にも据えられていたウィトゲンシュタインのテーゼを物語論から捉え返すと、すなわちこうなる。
「物語りの限界が世界の限界である」
ウィトゲンシュタインといえば、一昨日くらいにこんなツイートしました。 
これ、本当なんでしょうか。これも、歴史の物語から考えてみると、とても深遠というか、ワクワクするというか。

2012年12月15日土曜日

読書『切りとれ、あの祈る手を〈本〉と〈革命〉をめぐる五つの夜話』佐々木中著


山本先生に薦められた、新進気鋭の思想家・佐々木中さんの本を。
先生が言っていたように、情報の受け取り方、読書への姿勢に関する知見(フロンティア)が拓けたような、開眼するような「本と革命」をめぐる歴史物語に息を呑みました。

いくつか心を突いたコトバを。

(ルターにとって読書とは...)
「祈りであり、瞑想であり、そして試練である」
革命と本の関係性について
革命は暴力に還元されるものではありません。暴力が先行するのではない。まず根拠を明示したテクストが先行する。テクストの書き換えが先行するのです。 
革命は文学からしか起こらないし、文学を失った瞬間革命は死ぬ。 
ニーチェの「未来の文献学」に関する記述も興味深かった。

いつかこの世界に変革をもたらす人間がやって来るだろう。その人間にも迷いの夜があろう。その一夜の、その一冊の、その一行の微かな助けによって、変革が可能になるかもしれない。ならば、われわれがやっていることは無意味ではないのかもしれないのだ。絶対に無意味ではない。その極小の、しかしゼロには絶対にならない可能性に賭け続けること。それがわれわれ文献学者の誇りであり、戦いであると。

RADWIMPSの「バグッバイ」という歌の歌詞にこうあります
僕のいた朝と、僕のいない朝はどっか違っててほしい。少しだけでもいいから。 
僕が生まれてくる前と、僕が消えたあととなんか違っててほしい。世界は違っててほしい。 
きっと、人がすることはどこまでいっても「古いネジの回転にすぎない」と言ったベケットも「人類は滅亡する。だが人類は滅亡しない」と言うブランショも同じことをいっている。
世界の絶対的な連続性のことをいっている。

その那由多のなかで、ぼくのようなひとりの人間は粒のような塵のような刹那にすぎないとしても、ニーチェが託した「未来の文献学」やヴァルター・ベンヤミンの「夜のなかを歩みとおすときに助けになるものは、橋でも翼でもなくて友の足音だ」という言葉を思い起こすなら。

2012年1月11日水曜日

読書『一般意志2.0- ルソー、フロイト、グーグル』東浩紀著

♪Schism/ Tool


東さんの本を読みました。
まずは本のテーゼを切り取ってみます。

①近代民主主義の基礎である「一般意志」は集合的な 
無意識を意味する概念だということ。

②情報技術は集合的な無意識化を可視化する技術であ 
り、したがってこれからの統治はその分析に活かすべ 
きだということ。
これが本著の中核をなす2つのテーゼです。
著者は抽象論に陥らないために逐次、具体的事例に則りながら論を進めていきます。

ソーシャルメディアの台頭に伴い、わたしたちは日常で無数の「無意識」をバラまくようになりました 。
ツイッターでは「なう」に代表されるように、今現在自分がいる場所を何の気なしに呟き。ニュースや政治にぼやく。ネットが無意識の可視化装置として機能するようになってきたということです。
それらの「無意識」の塊を集積することは同時に、それらを「集合知」「群れの知恵」に変換できる時代になったのだと東さんは指摘しています。
「一般意志は政府の意志ではない。個人の意思の総和でもない。そして単なる理念でもない。一般意志は数学的存在である」
ということには「一般意志」の提唱者、ルソーは気づいていましたが、ルソーが生きた時代にその一般意志を可視化する手段はなかったのです。グーグルもなければ、もちろんツイッターもありません。

グーグルを手にしたわたしたち現代人。政治は停滞を迎えて久しくなった状況の中で、情報技術は変革をもたらせるのか。東さんは提案をします。
「これからの政府は、市民の明示的で意識的な意思表示(選挙、公聴会、パブリックコメントなどなど)だけに頼らずに、ネットワークにばらまかれた無意識の欲望を積極的に掬い上げ制作に活かすべきである。」
「21世紀の国家は、熟議の限界をデータベースの拡大により補い、データベースの専制を熟議により抑え込む国家となるべきではないか」 
「政府1.0は一般意志の代行機関だった。しかし政府2.0は、意識と無意識、熟議とデータベース、複数の「小さな公共」と可視化した一般意志が衝突し、抗争する場として構想される」
「現代においては、選良と大衆という人間集団の対立があるというよりは、ひとりの人間が、あるときは選良として、またあるときは大衆として社会と関わっていると理解したほうがよい。「大衆の欲望」は、その各人の大衆的な部分の集合として形作られている」
情報技術の文脈で語られる民主主義として紋切り型に語られるイメージは「電子投票」のように現代のような間接選挙、議会制を脱却した「真の意味での国民主権」を強調したものがありますが、本書ではそういった論ではないのだということを繰り返し強調します。
もちろん政治が大衆の手に渡るということは「衆愚政治」に陥る可能性が高いからです。
しかし、世論とあまりにも乖離した選良による統治も理想の政治とは到底言えません。
そこで筆者は上記のようなその二つを接合する、中立的なシステム(アーキテクチャ)を構築する必要がある、構築できる段階に至ったことを説明します。
「来るべき国家においては、有権者が責任をもって民意を託す選挙、およびそのまわりに張り巡らされる熟議の空間(各種審議会、委員会、討論会、パブリックコメント、さらには論壇誌やブログ、そしてテレビ- すなわち国政を頂点として組織される膨大な言論空間)とは別に、大衆の不定形な欲望を対象とする巨大な可視化装置が準備されなければならない」
「人間と動物、論理と数理、理性と感情、ヘーゲルとグーグル- それらさまざまな対立を「アイロニー」で併存させ、接合したところに、本書が構想する民主主義2.0は立ち現れる」
「動物的な生の安全は国家が保障し、人間的な生の自由は市場が提供する。それが本書が構想する未来世界の公理である」
去年ジョン・キム先生の『逆パノプティコン社会の到来』という本を読んだ時に、キム先生は緻密な分析からソーシャルメディアの変革で社会の構造的変化を描き出していました。



本書では、そういった状況の中で何をどうすれば政治のあり方を変えられるのか、もう一歩上の未来志向な議論であると感じました。
「日本人は「空気を読む」ことに長けている。そして情報技術の扱いにも長けている。それならば、わたしたちは、もはや、自分たちに向かない熟議の理想を追い求めるのをやめて、むしろ「空気」を技術的に可視化し、合意形成の基礎に据えるような新しい民主主義を構想したほうがいいのではないか」
といった問題意識を出発点に論を書き始めたそうです。
専門が思想ということで縦横無尽に先人たちを参照しながら、豊富な情報技術論の知識と接合しながら政治を論じています。このように対照的な領域を不自由なく横断的に論ぜることの出来る論客は日本ではわずかだと思います。
時代と照らしてみると、東さんのように一つの専門から抜け出し、インターディシプリナリーに事象を捉えないことには「カオスの泥濘」から一歩を突き出すことが難しくなりつつあるのではないかと感じた次第でした。



大学生ブログ選手権

2011年10月11日火曜日

読書『君たちはどう生きるか』吉野源三郎著

君たちはどう生きるか (岩波文庫) 


本を読みました。
以前から勧められていたこの作品、『君たちはどう生きるか』。

戦前、1937年に書かれた古い本です。
ですが、文面は瑞々しくぼくの心に何度も反響しました。

中学生のコペル君。なんでもそつなくこなす優等生で不自由のない暮らしをしています。
コペル君と彼を優しく見守るおじさんを中心に話は進んでいきます。
コペルくんは幼いながらに、社会の森羅万象に鋭い疑問を投げかけていきます。
スーパーの高層から地上を見渡し、地上でうごめく無数の人々をみて、まるで「分子」のようだとつぶやきます。
コペルくんの心に浮かんでくる疑問のひとつひとつに対しておじさんは手紙をしたためます。

コペルくんの将来を強く想う気持ちからこぼれ落ちてくる、おじさんの温かい言葉たち。
現代に生きるぼくらにも示唆に富むものばかりです。

事件が起り、コペルくんは親友たちとの心の約束を奇しくも破ってしまいます。
コペルくんは自分に失望し、床に伏せてしまいます。
悶々とした日々を過ごす中、自分の誠実さに嘘をつかない姿勢に感銘を受けました。

紆余曲折を経ながらも、徐々に大人に近づいていくコペル君。
そんな彼と自分を重ねながら読み進んで行きました。

本の最後にはこうあります。
そこで、最後に、みなさんにおたずねしたいと思います。
君たちは、どう生きるか。
大学生ブログ選手権

2011年7月25日月曜日

どうして政治と向き合っていくか

2010年から2011年に移ろうとしていたとき、僕はオハイオ州の小さな村にいました。
来たる新年に足を踏み入れる前に自分自身の想い・気持ちを整理したかったのです。
そこで猛烈な勢いで文字を書きなぐりました。
その時のブログがコレです。当時はまだアメブロでブログを書いていました。
6月にあったゼミのプレゼン合宿では、これを発表しました。
加筆・推敲した内容をコチラに掲載します。

【アウトライン】
Ⅰ. 序論
政治を見つめる《知の巨人たちからヒントを得ながら》

Ⅱ大学生としての自分
A. 学問の選択
1. 「脳がちぎれるまで、ケツから火が出るまで」
B. マスターサイエンスとしての政治
2. 「政治の本質は他者との活動にある」
3. 歴史の終焉

Ⅲ. 人生を歩んでいく自分
B. 政治的動物、『人間』
1. 「万人の万人に対する闘争」
2. アイデンティティ
C. 横たわる不均衡
1. 国際政治におけるゼロサムゲーム
2. コスモポリタニズム

Ⅳ. 結論
政治≒酸素

クッソ長いので、飛ばし飛ばしにでも読んでみてください。
途中、途中で言及した文献を挿入しておきます。
また、知の巨人は登場するたび、Wikipediaへのリンクを貼ってあります。活用してみてください。


【以下本文】
   2010年が終わろうとしていた夜、12月31日。僕はオハイオ州にある小さな町 にいました。明確な理由はないのですが、突然思い立って、20歳の自分が何を「射程」に捉えているのか、また、自らの内に以前からバラバラに介在していた曖昧な気持ちや考えを掴んで、クリアな形にして書き残しておこうと思い立ちました。義務感というか、この作業を経ないことには2011年に足を踏み入れることさえできないのでないかと感じるくらいの強い思いに駆られ、日記というかブログに筆を走らせたのでした。 つい先日、それをみて自分の方向性がその夜からブレてないことを再認識できた嬉しさと同時に、これをプレゼンテーションとしてシェアすることでまた新たな知見を得られ ることができたら面白くなるのではないかと思い、この発表に至っています。このプレゼンテーションでは、そのブログに基づいた内容で進めていきたいと思います。


   大枠に分けると、「大学生としての自分」と「人生を歩んでいく自分」という二種類の観点から「政治」を見つめた内容になっています。その節々で知の巨人たちからのヒントを借りています。その都度このiPadで人物画など示しながら進めていきたいと思います。(※実際のプレゼンではiPadを使用)


   大学4年間という決して短くない時間は後の人生に大きな大きな影響を与えます。ヴァラエティー豊かな学問分野から何を学ぶのか、その選択は決して蔑ろにされるべきではないと思います。自分が時間をかけて学んでいることの意義、それが将来の自分にとってどんな意味をもたらすのか。それと向き合っていく第一歩をここから踏み出したいと思います。単位を落とさない程度に勉強しておけばとりあえずは安泰、就職もどうにかなるだろう。マジョリティの学生がそう考えているだろうし、自分もそんな気はします。ただ、自分は別に就職、世間的に一流企業と呼ばれるような会社に入るために時間を削りながら勉強しているわけではありません。人間としての知的欲求を満たすにとどまらず、もっと新しいことを知りたい、それを元にもっともっと考えたい。「考えること」を考えたい。いつか死にゆくのに絶えず考え続けていくことの意味を考えたい。だから思考を止めないのです。これは、自分にとっては旅にでる時の気持ちと類似 しているような気がします。目にしたことのない景色を見てみたい、新しい人々に出会いたい。自分に内在するパースペクティブを掘り起こしたい。


   勉強をするときはいつもソフトバンク社長、孫さんの言葉をイメージしています。
「脳がちぎれるまで、ケツから火が出るまで」 
「脳がちぎれることも、ケツから火がでることもないのだから」


ここからは「政治」に話を移したいと思います。僕を含め、ここにいる多くの人 が「政治」を学んでいます。正直、高校生の時なんて自分が何を勉強したいのかなんて、皆目見当がついていませんでした。なんとなく漠然と興味のある分野を絞ってみて (例えば、英語が得意なら無作為に「国際」と名のつく学部を抽出してみたり)、受験する人が周りにも大勢いました。当時は「政治」そのものに対する知識は(未だにですが)浅薄で明確なヴィジョンなど持っていませんでした。ただ、学びを進めるうちにな んとなくその概要がみえてきたような気がするのです。それと同時にこの分野を選んでよかったという確信も膨らんできています。

宇宙は、世界は、国は、コミュニティは「政治」がなければカオスに陥ってしまいます。秩序をもたらすのが「政治」です。ルールがないと殺人や窃盗をはじめとした不正を治める手段がない、フィジカル的に強靭な者が理不尽に権威をひけらかし、「正義」が達成されることは困難となります。そうゆう意味で法を施行するためにもまずは 「政治」が必要なのです。「政治」が整備されてはじめて世界が成り立つとすれば、他のすべての学問も「政治」がまずは成り立たない事には開始されることさえないのです。アリストテレス先生が政治を「マスターサイエンス」と呼称したのも、それを意味してでしょう。政治哲学者のハンナ・アーレント先生に言わせると、「政治の本質は他者との活動」であるそうです。この言葉には大いに賛同します。





人間はひとりで生きて行くことができません。生まれてから、死ぬまでずっと他者との関わりの中で自己を規定していきます。世界で生きて行くからには、他者との関わっていかなくてはならないし、相互扶助していくことで人生を実りあるものに拵えていくのです。ところが人間は程度の差こそあれ、本能的に自己の利益を最優先にする性向があり、個人の本質はエゴイズムといっても過言ではないかもしれません。そこに 「政治」がなければアナーキーを創出してしまうのです。自分のテリトリーを守るため、生きるために略奪を繰り返すのです。例えば、家族や恋人が24時間危険に晒されていたら眠ることさえままらないでしょう。

古来から人類は真の「政治」を構築することに努めてきました。「生活の安寧」は縄文時代よりももっと前からの人類の中心命題であり続けました。試行錯誤を繰り返しながら。ちょっとづつ付け足し、付け足し、時の賢人たちが知恵を絞りながら理想の政治を形作ることに心血を注いできました。時には思想の違いや政治制度の違いが大戦を巻き起こすとこさえありました。それは現代に至った今でさえも。冷戦がその良い例です。冷戦の終結が直接、資本主義の勝利を意味するのかを判断するのはにわかに時期尚早な思いが残りますが。そして今、私たちは「民主主義」という政治制度の元、日々の暮らしを営んでいます。フランシス・フクヤマ先生は民主主義に至った現代を「歴史の終わり」と宣言しました。これ以上の社会制度の発展はないと断言しながら。これが全世界に普及すれば平和は達成されると主張しながら。自分自身はフクヤマ先生には半分賛成半分反対の心境です。民主主義自体に半信半疑で絶対の信用をおけるような完璧な代物ではないと感じるからです。一見、とても魅力的ですが、内に抱える脆弱性も反面目立つからです。ヘーゲル先生が言うように弁証法的な視点が民主主義国家の国民に共有されていないことには、マイノリティの権利が抑圧され続け、容易に衆愚政治に変換されうるきらいがあります。ポピュリズムにも弱いです。





デモクラシーを標榜する国の代表、アメリカに目を向けてみます。人々が思う以 上に社会に蔓延する経済格差が深刻化しています。それはジョン・ロールズ先生が列挙する原則が守られていないからではないでしょうか。特に彼が第二原理で述べている 「格差原理」。不平等が最も不遇な立場にいる人の利益を最大化するという原則。



ここからはもうすこし根源的な問題、人生を歩んでいくうえで向き合い続けていかなければならない様々なことがらを考察していきたいと思います。私たちは犬や猿や象と同じように動物です。だけど特別な動物です。アリストテレス先生は人間を政治的動物として、他の動物と峻別しました。「自足して共同の必要のないものは神であり、 共同できないものは野獣である」と。人間の知能の高さは他の生物と比になりません。 その高度に発達した脳をもって数々の概念や制度を生み出してきました。「政治」こそが人間を「特別」とたらしめる要因と考えてやまないです。政治を持たない他の動物達は野生、自然状態の中でサバイバルのための闘争を日々繰り広げる。そこに「安寧」は 存在しません。それを「万人の万人に対する闘争」として指摘したのがトマス・ホッブズ先生です。社会契約を通して、権力をリヴァイアサンに委譲する代わりに「安心」を得ること可能にしたのです。
(※「社会契約」や「リヴァイアサン」といった基本用語の説明・確認はここでは割愛します。Wikipedia見れば、一発なので確認してみてください。)



そして、ジョン・ロック先生はそのために政府が必要だと考えました。従来までの王権神授説を否定して、国民に社会契約の概念を説いたのです。ただ、政府の暴利の可能性を認識していたし、政教分離を進めるなど現実主義的な側面も持ちあわせていました。これが後世のモンテスキュー先生の三権分立論に受け継がれることになるのです。人間だって未だに内戦を繰り返しているじゃないかと指摘する人もいるかもしれない。グルジア、スーダン、ソマリア、枚挙にいとまがなく世界各地で。それは他ならず、「政治」の未発達、未熟さに起因しているのではないでしょうか。





サミュエル・ハンティントン先生が言うように「宗教」や「文明」の衝突に起因すると主張する学者の方々も多くいます。極度に複雑度を増した世界のどの局面を切り取るかで見え方は随分と異なるし、一概に正解を断定することはあまりにも危険です。 政治学は誤謬に満ちているからです。ただあくまでも世界の根幹をなす「政治」の乱れがある限り、「宗教」「文明」をはじめとする諸々の副次的なファクターも安定しないのは明らかです。



政治は僕らがこのゼミで学んでいるアイデンティティとも密接に関係があります。以前、「人は国籍から逃れることができるのか」について熟考していたことがありました。生まれた時点で日本人。眼に見える選択権をあたえられるわけでもなく、どうやったらこれを放棄できるのでしょうか。たとえば無人島で生まれ育ったらどうなるでしょうか。ストレンジャーが島に入ってきて、殺害したらどの法で裁かれるのでしょうか。基本的に日本人であったらその国が提供する様々なサービスや福祉を享受します。 例えば、警察機能などです。日本社会で生活を送る以上は、私は日本人ですという「暗黙の合意」がなされます。例えばスーパーで払う消費税を払っている時点で。合意がなされた時点でその国が施行する法を遵守することが強制され、違反すれば処罰を受けます。ただ無人島ではどうでしょうか。いつ合意形成がなされるでしょうか。シンプルに先祖や親の国籍が適用されれば事足るのでしょうか。それではアイデンティティ以前に 人間の尊厳的な権利を侵しているよな気がします。最近ではこのような、倫理的でリアルな問題が「正義」を基軸にサンデル教授を筆頭に注目を浴びています。



僕はこのゼミで世界の不均衡について考えていきたいと思っています。オリンピックの200m走をイメージしてみてください。様々な国から競技に参加しているランナーが銃声を合図に一気に駆け出します。極めて公平です。そこにはハンディキャップ もなければ不正もありません。フライングすれば仕切り直しされるし、ステロイドを使 用すれば資格が剥奪されます。これは極めてフェアーです。ただ現状の国際政治はどうでしょうか。アンフェアなレースが歴史的に繰り返されてきたのではないでしょうか。 範例を挙げると枚挙に暇がありませんが貿易がその一例です。輸出入体制にしても一 度、先進国がそのフレームワークを自分たちに有利なカタチで築くと、途上国は恒常的に搾取の対象になり続けます。誰かの豊かさは誰かの苦しみであり続けるのです。そう考えてみると国際政治はゼロサムゲームなのかもしれません。各国がパイの取り合い 繰り広げているのです。パイとは利得の取り分のことです。

簡単に説明してみます。競馬のシステムを頭に思い浮かべてみてください。人々が馬券を買う。そのお金が一カ所にプールされ、レースの結果に応じて、的中者に分配されます。一カ所に集まった「分配」をしているだけで、プールに貯まったパイ自体が増えることはありません。配当はオッズで調整されます。マクロ、マクロに考えるとその害悪を被っているのは他でもない個人、人間なのです。海外に足を運ぶたびに実感をすることになります。カンボジア、タイ、メキシコなどでも幾度と無くその現状を目の当たりにし、閉口してしまう場面も多々ありました。大学や会議室でいくら国際政治を大きな枠組で議論しても、辿れば個人なのです。彼らの苦しみは理解しようと思ってもできるわけがありません、実際にその境遇を味わうまでは。タイで深刻化する児童買春も臓器売買も、あらゆる負の産物の流れの水源を辿ってもどこにも行き着きません。歪んだ世界構造そのものが不均衡に満ちているうちは。

なぜ見えない国境の向こう側で喘ぎ苦しむ人々を見過ごすことができるのでしょうか。それを許せてしまう理由は一体何なのでしょうか。ナショナリズムでしょうか、 アイデンティティでしょうか。真の答えを求め、心の内をえぐりだすのは大変に困難を伴います、精神をすり減らすことです。しかしながら、主体性を持ちながら苦悩し、痛みと向き合わないことには真の学びはないと思います。

「貧困」をどうにかしなくてはと声高に叫び、NGOなどを介して途上国にボランティアに行く学生が跡を絶ちません。それが悪いとは思わないし、何かの糸口になれば素晴らしいことだと思いますが、独りよがりに終わったり、根本的な解決につながることはなかなかないと思います。「政治」が変わらないことには、世界は変わらないのです。本当にそう思います。政治規範がグローバルかつドラマティックに変わり、パラダイムシフトを起こさない限りは。自分が標榜するのは限りなく理想論に近いのかもしれません。理想は世界がゼロサムゲームから抜け出すことです。エゴイズムを捨て、グ ローバルアイデンティティを共有することです。伝統的なリアリズムでは国ごとが自国の国益を最大化することが至上命題ですが、どうにかそこから抜けだしていけないものか。凝り固まった現実主義を崩せないものか。

カント先生が「永遠平和のために」でいうようなコスモポリタニズムのようなもの。世界市民としての自覚。隣人愛が世界の隅々まで伝わって人が人を愛して、世界が世界を愛せれば。功利主義つまり最大多数の最大幸福をベースに置きつつ、個人の権利の最大限の尊重。それは可能なのでしょうか。民主主義である以上は、多数決にならざるおえないのでしょうか。苦悩は続きますね。「海底二万マイル」の作者としても有名なフランスの小説家ジュール・ヴェルヌ先生の有名な名言があります。「人間が想像できることは、人間が実現できることだ」まずはこれを自分自身がとことん信じることから始まるのではないかと思っています。





最後にハーバード大学教授ジョセフ・ナイ先生が日米安保について述べた言葉を紹介したいと思います。「日米安保は酸素みたいなものだ。無くなって初めてその大切さに気づく。」これは政治そのものにあてはまるのではないでしょうか。酸素がなくては人は生きられない。そんな当たり前のこと、日々の生活でいちいち立ち止まって考えたりすることはほとんどないですが。政治がなくては生きていけないことに気づいてない人すらいるのが現状です。昨今の日本では政治不信が浸透して、政治に期待を寄せる人はごく少数となってしまいました。政治家の言葉がオオカミ少年に聞こえ、政治が諸悪の根源とまで見なされてしまっているのです。



そんな中で僕らが日々、政治やら哲学やら、なんだか難しい本とにらめっこして過ごすことにどれほどの意義があるでしょうか。正直「こーんなことやってて何になるんだろう」とか思うことは多々あるけど、スティーブ・ジョブズ先生は言われました。 「点と点の繋がりは予測できません。あとで振り返って、点の繋がりに気づくのです。 今やっていることがどこかに繋がると信じてください。その点がどこかに繋がると信じていれば、他の人と違う道を歩いていても自信を持って歩き通せるからです。それが人生に違いをもたらします」自分は宇宙飛行士だろうが政治家だろうがプロ野球選手だろうがペット店員だろうがフリーターだろうが「正義」にコミットしていきたいと思っています。継続的な「正義」への粘り強いコミットが何かに繋がり、僕が生まれてきた意味を見出すことができると信じて。



長い文章を拝読、ありがとうございます。
他にもいくつかゼミで発表したモノがあるので、いつかのブログで紹介したいと思います。