東北大名誉教授(専門は科学哲学)の野家啓一さんの『物語の哲学』を読みました。
そもそもこの本を手に取ったのは、東大のあるゼミに見学というか参加したときに、ディスカッションで出てきた「時間は流れるのではなく、積み重なる」という野家先生の議論が出てきたことで、興味を持ったからでした。
ちなみにこの時間の"積時性"に関しては第6章で一章を割いて、考察がなされています。
科学哲学を専門にしている野家先生がなぜ物語論(ナラトロジー)なのか、もちろん確固たる理由があります。あとがきを引いてみます。
私自身の「物語り論(ナラトロジー)」はむしろ哲学における「言語論的転回」から触発されたものであり、直線的には新田義弘の論文「歴史科学における物語り行為について」に示唆を受けて、私の専門分野である言語哲学(特にウィトゲンシュタインの言語ゲーム論とオースティンの言語行為論)と科学哲学(特にクーンのパラダイム論とクワインのホーリズム)の延長線上に構想されたものであった。
科学哲学、分析哲学、言語哲学など、"哲学"がフォーカスする諸領野は多岐にわたるわけですが、言語論的転回が迫った変化はそういった領域を横断的に貫く一大事であったということでしょう。もちろん実証的な歴史学などもそれを免れることはなかった。
そもそもヨーロッパ系の言語でが、「歴史」と「物語」はギリシャ語の「ヒストリア」に由来する同根の語にほからないというんですね。
英語では後に"history"と"story"とに分化してそれぞれ「歴史」と「物語」の意味を担うことになったが、フランス語やスペイン語やイタリア語では今でも両者に同じ語が当てられていることはよく知られている。
この本でも科学哲学や実証歴史学など、特定の分野にフォーカスして考察を進めるというよりは、章ごとに領域をスライドさせながら、「物語論」の全貌というか核心を彫塑していこうとするところに主眼が置かれています。
たとえば、<歴史哲学をめぐる6つのテーゼ>
①過去の出来事や事実は客観的に実在するものではなく、「想起」を通じて解釈学的に再構成されたものである。[歴史の反実在論]
②歴史的出来事(Geschichte)と歴史叙述(Historie)とは不可分であり、前者は後者の文脈を離れては存在しない。[歴史の現象主義]
③歴史叙述は記憶の「共同化」と「構造化」を実現する言語的制作(ポイエーシス)にほかならない。[歴史の物語論]
④過去は未完結であり、いかなる歴史叙述も改訂を免れない。[歴史の全体論(ホーリズム)]
⑤「時は流れない。それは積み重なる。"Time does not flow. It accumulates from moment to moment" [サントリー・テーゼ]
Cf. マルクス「五感の形成はいままでの全世界史の一つの労作である」『経済学・哲学草稿』
⑥物語えないことについては沈黙せねばならない。[歴史の遂行論(プラグマティックス)]
W・V・O・クワイン
こうした歴史哲学と科学哲学をまったく相容れないものとして、乖離した形で捉えがちなのですが、クワインのホーリズムに依拠した科学観では、かなりの部分で通底した捉え方が演繹されるんですね。たとえば『論理学的観点から』で以下の記述があります。
地理や歴史といったごく普通の事柄から、原子物理学やさらには純粋数学や論理学に属する最も深遠な法則に至るまで、われわれのいわゆる知識や信念の総体は、周辺に沿うところだけが経験と接触する人口の構築物(man-made fabric)である。すなわち、言い方を変えれば、科学全体はその境界条件が経験であるような力の場(a field of force)のようなものである。
そもそもこの書物を手に取った理由でもあった第6章(時は流れない、それは積み重なる―歴史意識の積時性について)について簡単に紹介というか、素描しておこうと思います。
【1節:知覚的時間と想起的過去】
そもそも「時は流れる」という一般的な時間知覚の手法はどこに源流があるのか。
それはきわめて身近なものである。たとえば、「川の流れ」これは物体の位置移動によって時間の経過を表象するという意味で「運動学的比喩」と呼ぶことができる。
野家先生は特にフッサールの知覚的現在「過去把持―原印象―未来予持」に依拠してさらに深く考察していきます。(Cf. 『内的時間意識の現象学』)
エドムント・フッサール
【2節:非連続の連続】
今節では西田幾多郎などの議論をみながら、継起する出来事の非連続性と連続性の「矛盾の統一」=「非連続の連続」を省察する。
想起は連続的なビデオ画像ではなく、非連続的な出来事のスナップショットなのである。
過去の出来事は知覚的現在の下層に活性化可能な形で「沈澱」しているのだと言ってもよい。しかし、その連続性は「流れ」の連続性ではなく、「積み重なり」の連続性なのであり、むしろ「非連続の連続」と言うべきものである。
歴史家にとってのカノンともいうべき通時的整合性とは、堆積した時間の地層の間の整合性にほかならない。それゆえ歴史的時間は「流れ去る」という運動学的比喩ではなく「積み重なる」という地質学的比喩によって捉えられなければならない。それは均質的に流れる物理学的時間ではないのはもちろん、過去把持の連続性に基づく現象学的時間でもなく、むしろ重層的に堆積して地平の融合をもたらす「解釈学的時間」と呼ばれるべきものなのである。
【3節:八分半前の太陽】
一応、以下に同アポリアの説明を付記しておきます。
太陽から発せられた光は、光速度が有限であるため、地球上のわれわれに知覚されるまでに八分半の時間を要することが知られている。すると、今現在われわれに見えている太陽は、八分半前の太陽ということになるだろう。今現在の太陽の真の位置は、知覚されている太陽の西方に約2度ずれているのであり、今は目にすることができない。今現在の太陽を知覚するためにはさらに八分半待たねばならないのである。すると、われわれは現在「過去の太陽を見ている」ということにならざるをえない。これは言うまでもなく、過去は過ぎ去ってもはや現前せず、想起されうるのみだ。という基本前提に反している。「過去」が「今現在」に露出しているというパラドックスである。
【4節:物語り文と重ね描き】
今節では野家さん自身の見解が呈示されていく。
八分半前の太陽=理論的構成体(theoretical entity)として捉え返すのがその方策。
「八分半前の太陽が今見えている」という文は、「八分半前に太陽から光が発せられた」という理論的出来事と「その太陽が今見えている」という視覚的出来事とを連関させる物語文なのである。
われわれは時間的に隔たった二つの出来事を「物語り文」を通じて重ね描いているのであり、そこには矛盾のかけらもない。その意味で、物語り文は「歴史的重ね描き」の装置なのである。
【5節:歴史的過去と「死者の声」】
植村恒一郎『時間の本性』にヒントを求めながら、最終節となる本節で、時間の"積時性"の根幹を物語論から捉えた上で、その核心を開示する。
体験的過去と歴史的過去との断絶を橋渡しするのは、ほかならぬ物語り文である。物語り文は基本的には歴史的過去に属する二つの出来事を結びつける歴史記述の文章形式であるが、それは同時に知覚的現在、想起的過去、歴史的過去をも相互に結びつけることによって、それらの間の懸隔を埋め、統一的な歴史的時間を形作る働きをする。いわば歴史的時間は物語り文の中に折り畳まれているのであり、そうした物語り文のネットワークが「積み重なる」重層的な時間を形成しているのである。したがって、地質学的比喩によって語られる歴史的時間は「解釈学的時間」であると同時に「物語り論的時間」でもあると言うことができる。
以上までが6章の大まかな骨子で、最終章となる7章では <物語り行為による世界制作>という最終章に相応しいダイナミックかつ野心的な考察が加えられる。
歴史哲学をめぐるテーゼの6つ目にも据えられていたウィトゲンシュタインのテーゼを物語論から捉え返すと、すなわちこうなる。
「物語りの限界が世界の限界である」
ウィトゲンシュタインといえば、一昨日くらいにこんなツイートしました。
ヒトラーとウィトゲンシュタインが一緒に映った写真。これが本当なら驚愕の事実であることは間違いない。 pic.twitter.com/dFf1LX0xGEこれ、本当なんでしょうか。これも、歴史の物語から考えてみると、とても深遠というか、ワクワクするというか。
— ryohfu (@_ryh) August 2, 2013
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