Each day is a little life: every waking and rising a little birth, every fresh morning a little youth, every going to rest and sleep a little death. - Arthur Schopenhauer

2013年8月13日火曜日

読書『日本辺境論』内田樹著

日本辺境論 (新潮新書)

2010年の新書大賞である内田樹さんの『日本辺境論』を今頃読みました。
内田樹さんの文体独特の丸みというか、文章がスーッと浸潤していくタッチについてはこれまでにも何度か触れているのですが、やはり村上春樹の影があるんですよね、どこか。
(これまでにこのブログで取り上げたもの『日本の文脈』『疲れすぎて眠れぬ夜のために』)

日本人論でよく聞くものに「日本人は空気を読む」というのがありますね。
これをもっとも的確かつ精緻に分析しているのが内田樹さんによれば、丸山眞男の「超国家主義の心理」の定式化ということです。(Cf. 『現代政治の思想と行動』)
おのれの思想と行動の一貫性よりも、場の親密性を優先させる態度、とりあえず「長いものには巻かれ」てみせ、その受動的なありようを恭順と親しみのメッセージとして差し出す態度。
あとはこれまでの著作でも度々登場するレヴィ=ストロースの「ブリトコール」を日本の文脈に当てはめてみたり。(Cf. 『野生の思考 )

三部で「日本語」論に分け入っていくのですが、そこで明治期の西周や加藤弘之はたまた中江兆民におのずと話は及ぶのですが、そこで面白い記述がありました。
西欧語を、たとえば"philosophy"を西周は「哲学」と訳したんですが、中国では自前で西欧語の翻訳をしないで、日本で翻訳されたものを輸入するという迂回戦略が取られているらしいのです。
というのも、中国語でそのまま西欧語をインポート=翻訳するとなると、自国語の劣等性(そういった概念が存在しなかった事実)を認めることになりかねないからと。
日本ではそういったことはありえない。

西周

内田樹さんの推測を交えた考察によると、そもそも日本列島は無文字社会である。
原日本語は音声でしか存在しなかった。そこに漢字(真名)が入ってきて、漢字から二種類のかな(仮名)が発明された。原日本語は「音声」でしか存在しなかった。そこに外来の文字が入ってきたとき、それが「真」の、すなわち「正統」の座を領した。そしてもともとあった音声言語は「仮」の、すなわち「暫定」の座に置かれた。外来のものが正統の地位を占め、土着のものが隷属的な地位に退く。これが日本語の辺境語的構造であるというのです。

これ考えてみたら、2年前に「ゲーミフィケーションの病理」というエントリーでこのブログに書いたこと、そのまんまですね。
内田さんの論を継承するなら、僕の直観そのものが日本語の「辺境的構造」に棹さしていたということになりそうです。

そういえば、今月初めにこのツイートを見かけました。

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