情報学環の教授であり、東大の副学長も務めていらっしゃる吉見俊哉先生の『大学とは何か』を読みました。
先生専門は一応、社会学(カルチュラル・スタディーズなど)とか、都市論とかメディア論とかになるんですけど、本当に守備範囲が広い。
教授の人たちは知識の守備範囲が広いという人は往々にしているんですが、実際にそれを著作にまで落とし込んで、突き詰めてやられる人は少数なんじゃないかと。
そういう意味では情報学環は吉見先生はじめ北田暁大先生などなどその手のオールラウンダーが多い。「学際情報」と冠たるだけありますよね。
この本で描かれることは以下の4点に集約されます。
①キリスト教世界と中世都市ネットワーク、それにアリストテレス革命を基盤とした大学の中世モデルの発展
②印刷革命と宗教改革、領邦国家から国民国家への流れのなかでの中世的モデルの衰退と国民国家を基盤とした近代的モデルの登場
③近代日本における西洋的学知の移植とそれらを天皇のまなざしの下に統合する帝国大学モデルの構築
④近代的モデルのヴァリエーションとして発達したアメリカの大学モデルが、敗戦後の日本の帝国大学を軸とした大学のありようを大きく変容させていくなかで、どのような矛盾や衝突、混乱が生じてきたか
中世の頃にもなると、「大学」というものの骨格が整えられていくのですが、その中心的役割を担ってきたドイツにあって、カントが「大学」というものについてどういう考えを抱いていたのか。
「諸学部の争い」という彼の論文については以前どこかで聞いたことのあるような気がするのですが、実際に中身については今回はじめて知りました。そこで、少し紹介。
カントは神学部、法学部、医学部を「上級学部」とし、哲学部を「下級学部」に位置づけ、その両学部の弁証法的統一体として「大学」を捉えていました。以下、少し引用。
「聖書神学者はその教説から理性ではなくて聖書から、法学者はその教説を自然法からではなくて国法から、医学者は公衆に施される治療法を人体の自然学ではなくて医療法規から汲みとる」
これに対して哲学部は、
「みずからの教説に関して政府の命令から独立であり、命令を出す自由は持たないが、すべての命令を判定する自由を持つような学部」
上級学部が営むのは外部の要請に応える他律的な知であり、下級学部が営むのは外部から独立した自律的な知であるということ。なるほど、カントらしい。
ジョンズ・ホプキンス大
今のような大学の形に収斂したのが、米ジョンズ・ホプキンス大に求められるというのも初耳でした。
19世紀の後半になってもドイツの大学に比べるべくもなかった米国の主要大学だが、その半世紀後には経済力を背景にドイツの諸大学と並ぶ水準となる。そしてやがて、あれほど世界の知の中心であったドイツは、その座をすっかり米国に明け渡すのである。つまり、19世紀末から20世紀半ばまでの数十年間で、高等教育の中心はドイツからアメリカに移動したのだ。
この変化を大学制度の側からみるならば、米国の大学に決定的革新が起きたのは、1876年、イェール大学出身のダニエル・ギルマンが、新設のジョンズ・ホプキンス大学の学長に就任し、より高度な研究型教育を旨とする「大学院=グラデュエートスクール」を、新しい大学モデルの中核としてカレッジの上に置いた時からであった。これはいわば、それまでハイスクール的なカレッジ状態からなかなか抜け出せずにいた米国の大学が、ドイツ型の大学モデルに「大学院」という新規のラベルを貼って「上げ底」する戦略だったともいえるのだが、「大学」と「大学院」に分けてしまえば、旧来のカレッジ方式にこだわる教授陣を安心させ、しかも真に超一流の教授たちを大学院担当に据えていけば、米国全土から向学心に富んだ秀才の大学卒業生を集めることができたから、まさに一石二鳥のアイデアであった。
この辺まで読み進めて思うのが、当たり前ですが、「大学」が社会における所与のものなどでは決してないということ。
たまたま今の時代は中学、高校、そして大学、そして就職が主なルートになってはいるものの、それは特定の時代背景に依って成立していることにほかならない。
とはいえ、福沢諭吉の『学問のススメ』を読んでも思うように、人類において人が学びたいという気持ちは普遍のもののような気がします。「知りたい」という方が精確かもしれません。
アカデメイア
プラトンのアカデメイアにしても藩校にしても、私塾にしても、なんでもいいのですが、少なくとも「大学」が不変の学問の場であったことは歴史を辿っても一度もなかったということ。
常に革新・進歩、後退・退潮を繰り返しながら変容を遂げてきたこと。
国民国家と大学も決して一蓮托生なわけではないということ。
題名にもなっている、「大学とは何か」。あとがきで、吉見俊哉先生の解答が用意されています。ある程度は予測できたことですが、
大学とは、メディアである。大学は、図書館や博物館、劇場、広場、そして都市がメディアであるのと同じようにメディアなのである。メディアとしての大学は、人と人、人と知識の出会いを持続的に媒介する。本書は、「大学」という領域へのメディア論的な介入の試みである。
自身自らが、学際的視座から縦横無尽に領域を駆け巡り、それぞれ著書に落とすことで、現代社会における大学が抱える数多くの問題、たとえば大学・大学院の拡充にともなって質の低下が叫ばれる学生へ発破をかけているというか、メッセージを送っている気がしてならない。それに応えたいものです。
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