Each day is a little life: every waking and rising a little birth, every fresh morning a little youth, every going to rest and sleep a little death. - Arthur Schopenhauer

2012年11月19日月曜日

読書『挑戦する脳』茂木健一郎著


去年、バカンスでバハマへと向かう機内で自炊データで読んだ『ひらめきの導火線』以来、茂木さんの本を読みました。



とは言っても、毎朝「連続ツイート」をお目にかかっているので、取り立てて"ひさびさ"という感覚はないのですが。

本をひとつの文章でまとめるとすると、脳はオープンエンドであり、その無限の可能性を持ってして偶有性の海を泳ぎ続けること。
踊ることが、生きることの偶有性に対する、最も「強靭」な答えであり得る。
本の前半の方でサヴァンに関する記述がありました。 
「レインマン」のモデルとなったキム・ピークについて書かれていました。
ぼくがサヴァンと聞いて、真っ先に思い浮かべるのは『ぼくには数字が風景に見える』の著者ダニエル・タメットです。彼は12ヶ国語を操るマルチリンガルです。



「偶有性忌避症候群」や「アンチからオルタナティブへ」など普段から茂木さんがツイッターなどを通して主張されていることを改めて、まとまった論考として受け取ってみて、理系・文系にカテゴライズできないような遍歴を持ってる茂木さんだからからこそ、呈示できるに至ったマインドセットなのだと思いました。

一箇所だけ、とくに最近ぼくが考えていたこととリンクしている、且つとてもおもしろいと思ったので。

英語の論文を読むこと、書くこと、英語で議論することはできる。しかし、英語で、人々が面白いと思い、市場である程度の読者を獲得し、良い批評を得るような本を書くことのハードルは極めて高い。なぜ日本から、その独自の思想を英語で問うような動きがもっと出ないのか。やらないのではない。単純に、できないのだ。
 このフランクすぎるほどの露骨な諦念。
英語専用のツイッターアカウント、英語のブログなど英語で発信し続けてきた茂木さんならではの説得力があります。

村上春樹さんは数多くの翻訳で知られる他、若い頃からずっと英語で小説を読んできたと言っています。そして長年に渡って、海外に居住しています。
そんな彼でも、英語で小説を書くことは不可能だと言っています。
母国語(mother tongue)でない第二言語で情報を受容すること、小ぶりな発信をすることはできる。
ただ後発的に獲得した言語でもって、母国語と同じクオリティでまとまった著作活動することはよっぽどの天才でない限り無理だと言い切っています。

書籍の電子化が間断なく進み、流通に物理的な制約がますます取り払われていく中で、いっそう英語がマーケットで覇権を握っていくことになるのは容易に想像できることであるし、英語で発刊すればそれだけリーチヴォリュームが増幅することになる。
わかってはいる、けれど単純にできないんだ。とてつもない寂寞感。

TEDでの茂木さんの講演。


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