Each day is a little life: every waking and rising a little birth, every fresh morning a little youth, every going to rest and sleep a little death. - Arthur Schopenhauer

2012年11月12日月曜日

ソーシャルメディアで位相転換が起こっているのかもしれない


ツイッター、フェイスブックをはじめとしたソーシャルメディアがわたしたちの生活に埋め込まれ、「当たり前」のものとなってから久しくなりました。
当初は乱立するメディアの使い分けが明確でなかったものの、今ではかなりの程度目的に沿った棲み分けがなされるようになりました。

つい今日TLで流れていた「mixiはメッセージを監視している?」など、mixiは凋落する一途で、嘲笑・disりの関連でしか目にならないほどになり、去年までは「地元の友達はまだ使っている」と周りでは言っていましたが、その"地元の友達"の大部分もフェイスブックに移行した印象をうけます。
(アメリカではフェイスブック離れが進行しているようですが...)

日本に焦点を当てて、少し話してみたいと思います。
ほぼすべてのクラスタでフェイスブック移行が完了して、ソーシャルメディアの一番基本的なプラットフォームとしての位置を確立した格好。
ぼくたちの若い世代に限定されず、ユーザー層が幅広いのも特徴かと。


と、小田嶋さんが今日言っていたことにぼくは半分同意です。
純粋にパーソナルなメモリーログとしてフェイスブックを利用している人が大半なのだとは思います。
一方でリア充アピール、それに白目剥いて発狂する、非リア発火装置のような様相も一方ではあるわけで。

ツイッターに関しては、(あくまでぼくの周りはということですが)アクティブユーザーは漸進的に減っている印象。でもみんなまだポツポツと使ってはいる。
ぼくも未だに使っていて、情報の即時性(フレッシュさ)や多様性は数多ある情報サービスの中では優秀で使い勝手もいいと思っています。


ツイッターは本義的に、何気ない日常における場面を「つぶやく」メディアとして登場しましたが、今ではかなり性格が変容して、情報メディアとして地位を確立しました。

前略プロフの項目を頻繁に変えたり、付属機能としてあった「リアル」を常時更新していたように、人間の「つぶやきたい」願望はウェブ登場以来、脈々と受け継がれていて、かなり人間の行動心理の核なんだと思っています。

ただ既述のように、もはやツイッターが「つぶやくためだけの場所」ではなくなった今、その場所が他のメディアに場所を鞍替えしたかのようです。
ツイッターの拡散性はおそらく人の承認欲と結びつきやすく、リツイートやお気に入り(ふぁぼ)機能はある意味で、その人・ツイートの認知度を可視化します。フォロワー数も同様に。
それが承認欲を下支えしているとまではいいませんが、最近の全体的なTLの傾向を考えてみると、ツイッター発足当時の「お腹すいた」「眠い」などの返答を必要としないようなツイートではなく、「いかにふぁぼられるか」を追求したような拡散の波にのることを企図したツイートが目立つ気がします。


ただ「お腹すいた」「眠い」のようなごくごくパーソナルで他人(Webでのみ関わりのあるような)には一見無意味なことでさえ、吐き出したくなる承認欲とは切り離された根源的な何かは消失したわけではなくて、Google+やPathにシフトしたようです。(永続的なものではないと確信していますが)

たとえば、Pathは顔見知りので構成されるクローズドメディアなので、上記のような瑣末なポストにも反応が起こります。

メディア、とくにソーシャルメディアの位相転換は刻々と起こっていて、安定化する見通しはなさそうですが、何の気ない気持ちや感情をただ吐き出したい深層心理に沈殿した、このナニカはメディアが変わっていっても残存し続けるものなのではないかという気がしています。


【昔書いた関連】
・「ソーシャルグラフの膨張への反発としてのクローズド渇望
・「オープンとクローズドの緩衝地点
・「ツイッター日本語ハッシュタグにみる日本語の強さ

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