Each day is a little life: every waking and rising a little birth, every fresh morning a little youth, every going to rest and sleep a little death. - Arthur Schopenhauer

2013年5月27日月曜日

競馬というストーリーについて


ひとつのレースにはいくつものストーリーが埋め込まれている。
ホースマンたち、競馬ファン、そのひとりひとりでレースのとらえ方が違う。

キズナが200mを切ったところから一気の末脚で大外からエピファネイアを捕らえ切ったとき、8年前のディープインパクトの"飛ぶ姿"が瞼に重なった。
鞍上はあの時と同じ、武豊。
ディープインパクトの血はたしかに息子「キズナ」へと受け継がれた。
「絆」という馬名もニクい。競馬の醍醐味はなんといっても「血のロマン」。
キズナの母馬キャットクイルは過去にファレノプシスを輩出している良血。
ディープの子どもとしては3代目というキズナ。
サンデーサイレンスなき、種牡馬界はとうぶんディープが牽引していくことでしょう。

「ユタカ君も本当に命がけで乗ってくれた」という佐々木調教師の談話を紹介している、この記事は良記事で、長年の競馬ファンとしては泣ける内容。

ここ数年は不振続きだった武豊もさすがの騎乗。
前人未到のダービー5勝目。
真の千両役者ですね。

自分自身もひさびさに馬券を買っていて、それが的中となるとうれしくて仕方ない。

こうなると凱旋門賞でのオルフェーヴルとの叩き合いが今から楽しみで仕方ない。

2013年5月23日木曜日

インド瞑想記⑪ 10 DAYS WONDERの終焉

#⑩続編

いよいよ瞑想も実質的な最終日を迎える。(今日のam10に沈黙"noble silence"が解かれることとなる)
この10日間、全身から朝日を浴びることの気持ちよさを感じながら過ごしてきた。
なんとなく、この施設から外へ一歩を踏み出し、雑踏のなかにスムーズに適応できるか不安がよぎる。
この施設自体は"街"から離れた郊外に閉鎖的にあるし、この10日間一度たりともセンターの外へ出ていないわけで、そういう意味で「日本」も「インド」もなく、自分はただ「瞑想」の内にあった。

〜〜〜〜〜〜続きは「note」で公開中。

#⑫では総括として、プログラムを通しての振り返りを書きたいと思っています。

2013年5月19日日曜日

インド瞑想記⑩ 新しい朝― Perfect Equilibrium

#⑨続編

先に紹介した「早起きの常識を覆したら、毎朝5時に起きられるようになったお話」という記事で早起きの定義を
目を覚ますことではなく、両足で立ち上がることだ。
と変えることで、実行性(feasibility)が上がると書いてありました。同意です。 
インドにいる間はすんなり起きれても、日本に帰れば、飲み会があったり、タスクが溜まったり、早起きの障害が多くなっていきます。

孫社長が前にツイッターで言っていた「今日は人生で最も素晴らしい日になる。毎朝その様に願うことが大切だと思う」、"毎日がエブリデイ"みたいなはすごく大切で、今日は昨日と決定的に違うし、同じ日は死ぬまで訪れない。
こんな厳格にスケジュールが決まった瞑想プログラムでさえも7日目と8日目では決定的な懸絶がある。

要は、新しい習慣を自分の生活規則に組み込もうとしたときに、上の例のように視点の定点をズラす、定義を再構成することは実はすごく有効なんじゃないかということ。
"Gamificational Lifestyle"というエントリーで昔書いたことは実はいまでもハックとして使っていて、"ゲーム性"を日常に積極的に持ち込んでいく。
たとえば淀んで退屈な毎日もミッションインポッシブルのように、24のように勝手に緊張感をもって、一つ一つのタスクを一つの多いなる命題の下にこなしていく。
気付いた時には、それが自己規範となり、習慣となっていく。
ジョージ・オーウェルはこう言った。
小さなルールを守っていれば、大きなルールを破ることができる。
今日は4時前、ベルの音が鳴り響く前に目覚める。
退去日も近づいているため、部屋の掃除、外を掃いておく。

瞑想と瞑想の合間に、公衆便所(urinal)に行くと、いつも無数の蟻が長蛇の列をなしていて、活発に動き回っている。時間によって、疎らであったり、数えきれないほどごった返していることもある。
彼らにも彼らなりの生活秩序がある。ふと2年ほど前に読んだユクスキュルの『生物からみた世界』を想起する。
この本の中で今でも強く印象に残っているのは、やはり「時間があくまで相対的なものにすぎないこと。一人一人が大いなる主観の檻にある」ということ。人間のうちでも時間の流れは各々違っているように、人間と他生物ではそれこそ決定的に異なる。少しユクスキュルをひいてみる。
時間はあらゆる出来事を枠内に入れてしまうので、出来事の内容がさまざまに変わるのに対して、時間こそは客観的に固定したものであるかのように見える。だがいまやわれわれは主体がその環世界の時間を支配していることを見るのである。これまでは、時間なしに生きている主体はありえないと言われてきたが、いまや生きた主体なしに時間はありえないと言わねばならないだろう。
瞬間の連続である時間は、同じタイム・スパン内に主体が体験する瞬間の数に応じて、それぞれの環世界ごとに異なっている。瞬間は、分割できない最小の時間の器である。なぜなら、それは分割できない基本的知覚、いわゆる瞬間記号を表したものだからである。すでに述べたように、人間にとっての一瞬の長さは18分の1秒である。しかも、あらゆる感覚に同じ瞬間記号が伴うので、どの感覚領域でも瞬間は同じである。
彼がここでいう「環世界」とはすべての動物はそれぞれに種特有の知覚世界をもって生きており、その主体として行動しているという考え。ユクスキュルによれば、普遍的な時間や空間も、動物主体にとってはそれぞれ独自の時間・空間として知覚されている。(Wikiより)それぞれの生命に、それぞれの営為がある。



これを分かりやすく捉えるために、ウィキペディアでも取り上げられているマダニの環世界は非常に興味深い。
マダニというダニの一種には視覚・聴覚が存在しないが嗅覚、触覚、温度感覚がすぐれている。この生き物は森や茂みで血を吸う相手が通りかかるのを待ち構える。相手の接近は、哺乳動物が発する酪酸の匂いによって感知される。そして鋭敏な温度感覚によって動物の体温を感じ取り、温度の方向に身を投じる。うまく相手の体表に着地できたら手探りで毛の少ない皮膚を探り当て、生き血というごちそうにありつく。この生き物にとっての世界は見えるものでも聞こえるものでもなく、温度と匂いと触った感じでできているわけである。しかし血を提供する動物は、ダニの下をそう頻繁に通りがかるわけではない。マダニは長期にわたって絶食したままエサを待ち続ける必要がある。ある研究所ではダニが18年間絶食しながら生きていたという記録がある
この「環世界」という概念を基層に「コウモリであるとはどのようなことか」や「なぜ私は私なのか」といった関連項目を考えてみると面白い。 

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【瞑想記一覧】
■出発する直前
■インドへ到着
■いよいよ修行開始
■修行の後半戦
■最終日

2013年5月16日木曜日

インド瞑想記⑨ 宇宙にとっての「宇宙」― "Sky's the limit" is the limit.

#⑧続編

1週間を越えた。残すところあと3日。
1週間ではなく、10日間というのがこのヴィパッサナーの肝なのかもしれない。
どれほど長い一日も、明けない夜はない。
イェール大医学部で勉強している、というザ・夢を見て目覚める。

朝起き、眠気まなこでふと思う。
今日という自分にとって何気のない日も誰かにとっては"はじまり"の日であり、また誰かにとっては"最期"の日であるということを。

部屋のトイレの便座にヤモリがいる。
仕方なく、公衆トイレへ向かう。そこにもヤモリがいる。
"諦観"というのはこうゆうことを言うのか。笑
毎朝起きて必ず全身に日本から持参した虫除けスプレーをふりかけ、部屋に蚊帳もあるのに蚊に刺され続ける。かといって、蚊でさえ殺傷は禁じられている。
なんだかRADWIMPSの「おしゃかさま」から「DADA」の連なりが頭にイメージとして浮かぶ。



カラスが増えたから殺します。さらに猿が増えたから減らします。でもパンダは減ったから増やします。けど人類は増えても増やします。
僕らはいつでも神様に願って拝んでても、いつしかそうさ僕ら人類が神様になってたの。何様なのさ。 

生きてる間すべて遠回り、すべて大回り、なのにそれなのに。近道探してみて小回り、お巡りに見つからないようにばっかり。
あげくの果ては拝み神頼み、少しでも楽に他人よりも前に。叶わぬと知るや否や嫌みひがみ鬼畜の極み南無阿弥陀仏。 
日本にいた時は、ラッドウインプスなんてほとんど聴いていなかったのになぜかインドに来てからしょっちゅう脳内再生が始まる。どしてだろ。

卒倒事件以来、フルーツを意識的に多く摂るようにして快便になった。
前にも書いたけれども、とにかくここの果物は種が多く、食べにくい。(果物の品種改良がなされているか否かも先進/後進を隔てるものなのかもしれない)
日に日に、口の中で種をより分け、吐き出す技術が向上していく。
それでもまだ、立ちくらみの頻度は思うように減らない。あと数日の辛抱。
日本で毎朝食べていたフルグラが恋しい。

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ナビスコカップ 1次リーグ FC東京vsアルビレックス新潟


国立へ、ナビスコカップの観戦。
FC東京は勝っても、予選敗退というちょっと寂しい試合でしたが。
ホーム側は平日にも関わらず、かなりお客さん入ってました。
個人的には李忠成が先発でかなり嬉しかったです。得点こそ決めなかったものの、ポストプレーなどかなり目立ってました。

田中達也と石川がボールを追い合ってたのはかなり痺れました。

アルビレックスの側でやはり注目だったのは川又。

結果は石川と三田の得点で2-1FC東京の勝利。
石川は相変わらずキレッキレでした。
FC東京といえば個人的にはアマラオだったり、トゥット、そして佐藤由紀彦の時代が一番鮮明に覚えています。

「石川な〜お〜♪」

チュンさん

渡邉千真やルーカスの出番はありませんでした。
さいスタの豪州戦行きたい。

2013年5月13日月曜日

インド瞑想記⑧ 単調な日々を淡々と、だけど地に足をつけて

#⑦続編

緊張感を持って、サバイバル意識を持って毎日を生きる。
何気ない一日こそ、一瞬一瞬に「生」をねじ込んでいく。常に前のめりに。
射程に強靭な精神、精悍な顔つき、心の中に孤絶した砦を。
独立心と主体性。

どれほど過酷な環境に置かれていても、気持ちの持ちようで自分は常に"自由"であり続けられる。
ホリエモンは収監され身体は牢屋にあったが、心はずっと自由なままだった新刊で言っていた。

星新一の短篇集の中で「欲望の城」という物語がある。
現実世界の生活はとても苦しくて、何の代わり映えもしない男が、常にニコニコ笑顔で充実した様子で生きている。
彼は夢の中に欲望の城を築城し、そこで次から次へと自分の欲しい物を取り揃えていく。

何が言いたいかというと、日本にいても、フロリダにいても、インドにいても「自分」は常に"そこ"に在るということ。
自分からは逃れられない。

日本での生活は「酒池肉林」だったような。そんな気さえしてくる。
ギリシャ人の参加者が明らかの体調を崩している。顔はやつれ、顔色も優れない。生気が感じられない。大丈夫だろうか。
菜食だからか、汗がほとんど臭わない気がする。

一曲聴くことが許されたならDragon Ashの「静かな日々の階段を」聴きたいと思う。
草木は緑、花は咲き誇り色とりどり
四季はまた巡り、小春日和
用もないのにただ 並木通り 思う今一人
ハーフタイムなんてなしに過ぎる日常
俺もなんとかここで一応、やりくりしてるわけで
時にはなりふり構わずに生きよう
むかえる朝 変わらずにまだ 陽はまた昇り
くりかえしてゆく
窓の外は南風 洗い流してこの胸の痛みまで
過ぎ去りし日の涙 時がやがて無意識の中 連れ去るのなら
大事なのは光だけ あともう少しここにいたいだけ  
フロリダ大学に留学しているときに、よく聴いていた。
あの頃は、コレ以上に時間がゆっくり流れていくこともないだろうと思っていたけど、ここでの生活は遥かにそれを上回る。

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2013年5月11日土曜日

「どーでもいい感情」の受け皿はツイッターからLINEへ


ツイッターには二つの使い方がある。

①つぶやく
本来的な使い方。その時々のランダムな感情のはけ口として。
最初はこういう使い方をする人が多かった。
前略プロフィールの「リアル」やmixiボイスなど、常にこの受け皿となるようなサービスの需要はあり続けた。

②情報発信 / 収集
その情報の即時性や拡散性が認識されるようになってからは、情報発信/受信ツールとして利用する人が増えた。大手新聞会社なども公式アカウントを持つようになったのは、かなりそれを裏付けている。

最近、ツイッターのアクティブユーザーが減少しているらしい。
おそらくそれは全体値でみたら正しいと思うのだけれども、それはあくまで①の使い方をしてきた人が、ツイッターを「つぶやき」の場として使わなくなったからではないかと思う。
上にも書いたように、「お腹空いたー」「暑い」など、誰にとってもどうでもいいこと、でも本人は吐露したいことの受け皿は常に求められている。
そしてそのプラットフォームは常に流動化してきた。
個人的には、LINEがその受け皿になってきたのだと思う。
とくにLINEのグループ機能に集約されつつあるのではないかと。

そもそもツイッターで②のような使い方がなされてきてから、①の使い方をする人が煙たがられ始めたような印象を受けるし、往々にしてそれはフォロワー数に反映されている。

有名人アカウントの①は歓迎されるが、一般人の①はどうでもいい。
これがおおかたの所感だと思う。

②の使い方をしている人は、いまでも普通にツイッターを使っているのではないか。

フェイスブックに関しては、ツイッターやLINEと性質が根本的に異なるので競合はせず、時間のパイの取り合いは起きないと思う。
ザッカーバーグさんがライフログとなるようなサービスを目指しているというように、フェイスブックでは自分の「リア充」の側面だけをみせる場となっている気がする。
フェイスブックをツイッターのつぶやきのように使う人はKYとさえ言われる。

とまあ、なんとなく最近のSNSをみていて思ったことをいくつか書いてみました。
たぶん数カ月後、いや1か月後にこの文章みたら、ほとんど正しくないと思ったり、思わなかったり。

【その他、昔に書いたSNS関連】
LINE POP、パズドラ、それでも時間は流れていく
ソーシャルメディアで位相転換が起こっているのかもしれない
ソーシャルグラフの膨張への反発としてのクローズド渇望

2013年5月9日木曜日

インド瞑想記⑦ 圧倒的な自己修養ー Universe in the Head

#⑥の続き

苦痛は消え去り、快感へ変わっていく。陰鬱だった空模様が、晴れ渡っていくかのように。
目覚め、薄陽に包まれた外へ一歩足を踏み出し。吸い込む空気の一吸い目。ちょっとした恍惚感。
このブログのヘッダーに据えているブッダの言葉。
Each morning we are born again. What we do today is what matters most. (新しい朝が来るたび、私たちは生まれ変わる。今日なにをするかが一番大切なのだ)
毎朝、欠かすことなく飲む温かく甘いチャイ。
ゆっくりとすすりながら、その甘露さと円やかで静謐な窓の外の景色に身が包まれていく。
今日も虚心坦懐に瞑想に臨む、心がそちらへ向かっていく。

ここまでで(6日目)どのくらい体重が落ちたのだろう。とても体が軽く感じる。
おそらく3〜5Kgくらいだろうか。カロリー計算で2食が日本の1食に満たないのではないだろうか。
体が食べ物を求めるのを諦めはじめ、水(といってもお湯)だけで済ませてしまう日もある。

衣食住のそのすべて、自分にとってかけがえのないもの、当たり前のもの、なくてはならないもの。それをいきなり取り上げられても、はじめは辛くとも、すぐに慣れてしまう。
人間の適応能力は思うよりも高い。
習慣は人間の根幹部で、習慣化するまでの時間を努力と呼ぶのではないか。
アリストテレスもこう言うように。
We are what we repeatedly do. Excellence, therefore is not an act but a habit. (繰り返し行うことが、人間の本質であり、 美徳は、行為に表われず、習慣に現われる)
そういえば、昨日、こんな記事があった。 30年間黙々と“木を植えた男”、今では広大な森林に多くの動物の姿。
ローマは一日にして成らず、それはそうだけど、「習慣」はなにもかもを可能にする力を秘めている。

少し時間軸がズレて、入れ込んだ話になってしまうけど、先日GWにバイトをしていて思ったことを。
GWのバイトの繁忙さは異常で、時間が濁流のように高速で流れていく。
瞑想時の時間が止まったような、感覚とは比べ物にならない。アインシュタインの「相対性理論」を肌感覚で突きつけられた訳です。
きっと時代の寵児と呼称されるようなIT企業の社長と出家僧侶では根本的に流れている時間が違う。きっと3倍くらい感覚的に長い人生なのではないか、後者は。
2年ほど前に書いた「ゆっくり錆びるより、一気に燃え尽きたい」というエントリー。
多種多様、十人十色。それぞれの生き方がある。
生き急ぐのもまたいい、疲れ果てたときにこそ「」を感じたりもする。

『思考は現実化する』にある以下の言葉。これさえも時間の一つの捉え方であって、真理ではない。
人生というものは、チェス・ゲームのようなものである。そして、対戦相手は時間なのだ。もしあなたがためらっていたら、相手はどんどん先へ進んでしまう。あなたの駒はすっかり取り払われてしまうだろう。あなたが戦っている相手は、決して優柔不断ではないのだ。
ある人の目にはカッコイイがダサく、ダサいがカッコイイと映る。それだけのシンプルなこと。 



瞑想プログラムも折り返し地点を過ぎてからは、純粋に修行を楽しめるようになってきた。無我の境地を探求する。もちろん10日間で解脱に至れるはずはない。
それでもとにかく空漠とした時間の中をクロールし続ける。
とにかく瞑想・修行では呼吸法が鍵を握る。

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インド瞑想記⑥ 得るもの、失うもの(gains and loses)

#⑤続編

いつもは4時に起床するところ、am3に目が覚めた。
割れるような稲妻の轟。こんなに雷を肌に感じたのは、生まれて初めてのことだ。"振動"を体に感じる。
悪い虫の知らせなのか?情報がまったく入らないなかで、北朝鮮の核ミサイルが脳裏によぎる。(というのも、日本を経つ寸前、取りざたされていたのだ)

インドの天気も変化が激しい。ゲリラ的に雨が降り注ぐことも珍しくない。タイやカンボジアほどではないが。
朝を迎える頃には、天気も回復した。



そして瞑想の前に、ラジオ体操(ストレッチ)をこなし、少し辺りを逍遥する。
この辺りに棲息する鳥の種類も大方分かってきた。
高校時代オハイオの高校に留学していたとき、'Environmental Science'というクラスの中間テストで50種類くらいの鳥を暗記させられたのを思い出す。
このクラスは1限だったので、毎朝クラスメートと共にバードウォッチングをしていた。
ここの瞑想施設では、誰も言葉を発しないために、チュンチュンと鳥が木の実をついばむ音が余計に耳に響く。

遅々としながらも充実した日々が過ぎていく中で、日本やアメリカで濁流のような毎日を過ごしているであろう友人たちのことを想う。

きっと、すべてを失って得るもの、すべてを投げ捨てて残るものがある。
どれだけ"断捨離"マインドを持っていても、肌身に離せないものがある。

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2013年5月8日水曜日

インド瞑想記⑤ いわゆる「静かな日々の階段」― just continuum

#④の続き

億劫で仕方なかった4時起床。
3日も過ぎると、目覚めが気持ちよくなってきた。
ぼんやりと、まだ開ききらない瞼をこすりながら、窓の外に広がるファジーネーブル色の曙光をみつめる。

ベッドから這い出ると、すぐに顔を水で洗った後、外に出てラジオ体操のようなものをやり、全身に目覚めの号令をかける。
天に向かって思いっきり背中を伸ばす。とっても気持ちがイイ。
(早起きといえば、この記事がとても有益に思いました。とくに日本に帰国してこの生活を維持するためにも。「早起きの常識を覆したら、毎朝5時に起きられるようになったお話」)
ホールでの瞑想に参加する前に洗濯を済ませておく。太陽が照りつけていて、乾くのは極めて早い。

こんな風にゆったりと、何に追われるでもなく、静謐な時間の中に身をおいているとソローがエッセイで言っていたことがよくわかる。
一日一日が、これまでけがしてきた時間よりも早くて、神聖で、曙光に満たされた時間を含んでることを信じない人間は、結局、人生に絶望しているのであり、暗さをつのらせてゆく坂道を転落しているのである。感覚的な生活がいったん中断されたあと、人間の魂、いや、むしろ魂の諸器官は、毎朝活力を取り戻し、そのひとの「霊性」は、ふたたび気高い生活を営もうと努力するのである
ただ、さすがに毎日同じ飯には辟易した。味は悪くないのだが。
高校1年次の夏に1ヶ月間ユタ・ソルトレイクシティにホームステイしていたときのことを思い出した。ホストファミリーといっても、70〜80歳くらいのおばあさん一人。
敬虔なモルモン教徒で、近くの教会の牧師をやっていて、宗教関連の啓発書も何冊か出版しているほどの筋金入りの宗教家。
話題の9割は宗教だった。
そして出される食事は1ヶ月間不変(自家栽培の野菜、みたこともない野菜だったので未だに名称が分からない)で、みるみるうちに食欲も減退していき痩せ細っていった。
体力もみるみる減っていくぼくを見かねたのか、最終日にはタコベルに連れて行ってくれた。

よく海外に行って、日本語を耳にすると安心感や懐かしさを覚えるという。
インドに着いた当初、アメリカ英語を耳にすると同様の安堵感を覚えていた。
インド英語独特の訛り(わりとイギリス英語寄り)、ぼく自身の英語がアメリカ英語なので、最初は困惑しましたが徐々に慣れていった。
各国の英語といえば、有名ですがこの動画が最高にクオリティ高いですよね。(インド英語のイミテーションも最高です笑  個人的にはRussianが一番ツボですね、それからNigerianもうまく特徴つかんでる


夜の講話(discourse)もアクセントの強いインド英語だった。
この必死に言葉に食らいつこうとする感じ、以前どこかで体験した感覚。
そうです、高校3年生のときに行った福島での免許合宿。笑
学科の講師がコテコテの福島弁訛りで、なにひとつ教習が理解できなかったのでした。そりゃもうインド英語よりも酷かった。笑

軽いランチを終え、しばしの休憩で自分の部屋へ戻る。
当然の如く、我が家では多くの虫達がくつろいでいる。
最初はいちいち文句を言っていたトカゲにも、「ただいま」という始末。
どれだけ受け入れがたいと思った環境も衛生も、数日すれば慣れてしまう、人間の適応能力。「足るを知る」というか諦念。
ベッドに蚊帳もあり、日中は虫よけスプレー全身にふりかけ、寝るときは蚊取り線香を忘れず焚くのに、気づいたら全身100箇所くらい刺されてる。笑
瞑想のときも当初、ハエや蚊が体に止まる度に振り払っていたけれど、あるときからはもう気にならなくなる。受け容れる。
虫なんて簡単に友達になれますよ。まして10日間誰とも口にしちゃいけない状況の中では。人は独りじゃ生きれないんです。
きっと、独りっきりで山篭りしている人だって、ぼくと同じように虫や鳥とお友達になることに疑いの余地ありません。

タバコの禁断症状のピークもこの頃だった気がします。
2〜3日めにかけては、吸いたすぎて塀を乗り越えて買いに行こうかとも思いました。笑
結局、禁煙のためには矯正装置ならぬ矯正環境が必要なのかもしれません。
そこに自分の身を置くしかない。

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2013年5月4日土曜日

インド瞑想記④ あまりにも茫漠とした時間のなかで―Disposition of Soul

#③続き

旅にでる話をすると、多くの人が、こう聞いてきた。「目的は?」「何を求めてるの?」
きっと腹の内で、"バックパッカー"や"自分探しの旅"といったワードに聞き飽きた嫌悪感というか、独善性を括り付けているのだと思う。

「別に目的なんかなくたっていい。独善的だっていいじゃん」とぼくは思ってしまう。
打算的にならずに、飛び込んで行きたい。初期衝動に突き動かされて。
点と点がつながるのは、いつだって後から振り返ったときだ。(looking forwardではなく、backwardなのだ)
とくに日本では即物的な思考が根を張り巡らしすぎていると思う。
その先に利益(profit)が約束されていないと、行動に身が入らない。
自分の内に宿る欲求よりも、社会の中で位置づけられる価値を優先する傾向。
これでは思わぬ点と点の結合はなかなか起こらないのではないか。
身を粉にして働いてキャリアアップなり昇進なりに猛進している人も、「なぜ生きているのか」と問われれば答に窮してしまう人がほとんどではないかと思う。
この辺のことは以前「就職、進学、そして生きていく事」というエントリーの中で詳しく書いた。

完全な静寂のなかで、自らの人生を省みて余生について沈思黙考できる環境はおそらく、自分から積極的に身を投げ出して行かなければ得られないであろう確信があった。
社会のレール、なんとなくの空気感に右顧左眄し、通説通り就職するよりも、長い人生の中で一度、立ち止まる時間が欲しかった。
「求めよ、さらば与えられん」というマタイ伝の言葉。
時代に伏在する不易なものを看破するための時間。
忙しなく一瞬一秒が濁流のように流れていく東京の喧騒の中では"安心立命"の境地にたどり着くことはまず不可能ではないか。

坂口安吾『堕落論』のこんな一節を思い出す。
善人は気楽なもので、父母兄弟、人間共の虚しい義理や約束の上に安眠し、社会制度というものに全身を投げかけて平然として死んで行く。だが堕落者は常にそこからハミだして、ただ一人曠野を歩いて行くのである。悪徳はつまらぬものであるけれども、孤独という通路は神に通じる道であり、善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや、とはこの道だ。キリストが淫売婦にぬかずくのもこの曠野のひとり行く道に対してであり、この道だけが天国に通じているのだ。何万、何億の堕落者は常に天国に至り得ず、むなしく地獄をひとりさまようにしても、この道が天国に通じているということに変わりはない。悲しい哉、人間の実相はここにある。然り、実に悲しい哉、人間の実相はここにある。
そう、"孤独"の道をくぐり抜けること。ここに真の人間の実相はあるのではないかと思う。そして、東京の喧騒の渦の中にいれば、"孤独"に出会うことはほぼない。

活字やコミュニケーションから完全に断絶・遮断される。SNSの網の目から逃れる。
他者から隔離され、己の内に閉じこめられる。
拡がる世界の一点に意識を掻き集める。

結局、日常でどれほど知らんぷりしていても、見て見ぬ振りをしていても
死ぬときは独りきり。

一度、目を閉じれば自分の内に茫洋と広がる孤独の闇があるはず。
常にそこにあっても、自分からソレと対話しなければ何時まで経っても、その時はやってこない。


タイムテーブル

基本的に上記のスケジュールに沿って毎日流れていく。
4時起床の9時半就寝だ。
非常に規則正しい。最初は辛いが慣れると気持ちいい。

改めて禁止事項を確認しておくと、

音楽、酒・タバコ、本・活字・電子デバイス、メモ・日記、コミュニケーション・アイコンタクト・ボディーランゲージ、運動(ジョギング・ウォーキング含む)、いかなる殺傷行為(間接的にも→食事はすべてベジタリアン)、あらゆる性行為
加えて、
部屋にはシャワーはついていない。一応フィルター濾過済の水が飲めるが、暑さのためにほぼお湯である。

はじめの三日間の話をしようと思う。

さっそく、一日目、4時半からホールでの瞑想がはじまった。

坐禅を組み、背筋を伸ばす。両手を前に据える。
上唇と鼻で三角形のポイントを作り、そこに意識を集中させる。それを頭の天辺に移し、全身を一つずつ点検していく。
無為自然を大切にしながら、衣服や空気が触れる感覚からはじめ、体の各部にセンセーションを見つけていく。

1時間も瞑想を続けていると背中が痛み始める。集中力も散漫になる。
圧倒的なまでの自己の精神力の弱さを思い知らされる。
Mr. Children「かぞえうた」の一節が頭をかすめる


僕らは思ってた以上に脆くて小さくて弱い。
でも風に揺れる稲穂のように柔らかくたくましく強い、そう信じて。 
インド前日くらいから便秘が続く。
急激に変わった環境のせいなのか、単純に座り過ぎなのか、栄養なのか、分からないが。
そして三日も経つ頃には体重が落ちてきているのを感じる。



部屋にトイレも備え付けられているが、トレインスポッティングの便器のように汚く、便意も起きない。

食事のメニューは基本的に10日間ほぼ同じだった。
たとえば、朝食がパサパサしたもち米のようなものに、ミカン。
このミカンが日によって、スイカになったりバナナになったり。そしてミカンの一粒一粒に律儀に種が入っていて、スイカも食べづらいくらいにふんだんに種が詰まっている。
フルーツ一つとっても日本やアメリカ、ヨーロッパで食べるものは高度に品種改良が加えられ、食べやすいものに加工されているのだと気付かされる。
それから、バナナ。



極端に小さい。日本で食べるサイズの3分の1ほどの大きさしかない。(上の写真のイメージ)
きっとインドの人にとってみればこれがバナナで日本にきてバナナをみれば、その大きさに驚くと思う。
普段自分が当たり前と思っているもの(taking for granted)なものは、実は当たり前でもなんでもなくて、所変われば当たり前は違ってくる。
バナナ一つにそんなことを思わされた。少し怖くなった。
バナナにかぎらず、自分を取り巻く多くのもの、思考の根を張る"常識"と呼ばれるものの一つに疑心暗鬼になる。

昼食は薄っぺらいナン、カレーが何種類か。もちろんカレーはベジ。

夕食はなくて、代わりにティーブレイクがある。そこではチャイと日本でいう雷おこしのようなカレー風味の乾燥米が振舞われる。そしてこの雷おこしみたいなのが一番のお気に入りだった。
そしてチャイには救われたように思う。甘いミルクティー。あまりにも甘いのでいつも水を足して甘さを和らげた。

朝〜夕食まで総じて托鉢のような献立だ。

今、振り返ってみると最初の3日間があらゆる意味で最も辛かった。

瑣末なことに不平不満が絶えない。
上記のような食事、冷たいものが飲めない、水しか飲めない。
でも、アフリカの人からすれば土の濁りのない透明の水を飲めているだけ幸運。
すべては「相対性」に還元される。

暑い。部屋が汚い。
「一体、この部屋には何種類の蜘蛛がいるのか?」アリ、蛾、ハエ、蚊、トカゲ、ネズミ、嫌われ者たちの展示会(exhibition)のようになっている。
サラマンダーやグラスホッパーは一日に一度はぼくの部屋を訪れるようになった。

そして、一日1箱吸うのが当たり前だった自分にとって、いきなり禁煙するのは辛かった。それでも「今やめられなかったら、一生やめられない」と言い聞かせてここまで来た。



コミュニケーションを剥奪されると、彼女や友達や家族がやたら恋しくなる。
ぼくはいつもこんな感じだ。これまでアメリカへ二度留学したけど、いつもこんな調子だった。その意味でコミュニケーション理論で有名な「Uカーブ」はあまり自分には当てはまらない。
ハネムーン期の前にまず、ホームシックというかいきなり倦怠があるのだ。
でもこれも3日くらいまでで、そこまで来ると、あまり考えなくなる。
結局は「10日間」という期限つきなのだ。
これは決定的に重要な点であると思う。
たとえば『ショーシャンクの空に』で無実の罪で監獄にぶち込まれたアンディーは、「終身刑」という見えない時間の中で生きることを余儀なくされた。それでも"希望(hope)"を失わなかった。
Mr.Childrenの'one two three'の歌詞に
ビデオにとった『ショーシャンクの空に』見てからは、もっともっと確信に近いな。暗闇で振り回す両手も上昇気流生むんだ。
とあるように、映画で描かれる壮絶なドラマはたとえ、それがドラマであったとしても、その疑似体験はいつも自分に勇気を付与してくれる。



今年のTCC賞のグランプリだった
映画は、本当のことを言う嘘だ。
はその意味で核心を衝いていると思う。 

インドへ瞑想の旅へでる前週くらいに、土屋Pにインドへ行く旨を話した。
すると、「期限のない旅」にこそ価値はあるのではないかというような話をしていた。
もしかしたら「もう帰ってこないかもしれない」「二度と祖国の地を踏むことはないのかもしれない」、それこそが真の旅のリアリティなのかもしれない。
この極限の状態において、はじめて生まれ育った土地「日本」を省みることができるのかもしれない。

心身が安定しないまま、瞑想は続いていく。
考えないことを学ぶ訓練、一瞬の悟りのための24時間。その一瞬の悟りの感覚を一度でも掴めれば、その日は報われる。
しかしその瞬間はなかなか訪れない。

ひたすら雑念、煩悩が脳ミソの高速道路をハイスピードで往来していく。
10分、30分、1時間がとてつもなく長い。
「夏帆の本名ってなんだったっけ?」という一度現れるとなかなか消えないどうでもいい疑問や、「吉田麻也のこれまでのキャリアパス」など、次から次へと今はどうでもいい事柄が頭を支配していく。
考えないように努めれば努めるほど、その濃度は増していく。

あまりにも時間は円滑に流れて行かない。
脳内で『もののけ姫』の上映が始まる。
アシタカが"Princess Mononoke!"と叫ぶシーンがずっと頭にこべりつく。(ちなみに『もののけ姫』を英語でみると、これがなかなか面白いです)



それを振り払う。
ロダンの「考える人」ををイメージする。
たしかあの男は地獄の門の上で、思索にふけっていたはずだ。
天国と地獄のその真中、「煉獄」とはいかなる場所なのか。
普段は考えもしないようなことにまで断想が飛び火していく。

薄く浮遊しはじめた断想が、なんとなく陽明学に及ぶ。知行合一。
100思考したところで、1の実践には及ばない...。

自分の両サイドで黙々と瞑想を続ける僧侶たち。
彼らは一体どんな人生観を持っているのだろう。どんな未来を思い描いているのだろう。夢は?希望は?
僧が性行為を禁じられているならば、彼らの両親は僧ではないのか。いろいろな事情を思案する。

なぜか僧から我が家のペットに考えが及ぶ。
一見、幸せそうな犬たち。屋根付きの家があり雨風を防ぐシェルターの中、エアコンがあるから夏は涼しく、冬は暖かい。食事もきちんとでる。
でも一日2度の散歩のときのあの異常なはしゃぎぶり。
そう、自分の意思で自由に外へ出入りすることは許されていない。
圧倒的な"不自由"なのだ。生まれてから、死ぬまで。

こんな調子で1〜3日くらい、次から次へと様々な思いに囚われていた。
食欲も減退していき、ベジ食の中で体力、精力が後退していく。
栄養不足気味からか瞑想のあと立ち上がると、立ちくらみがデフォルトになっていき、日に日にその度合も増していった。
KFCの犬にしゃぶり尽くされたあとの骨のようになっていく。絞られる雑巾。

身体が硬くなるのだけは避けたかったため、寝る前に軽いストレッチだけは欠かさずに行った。



ホールで皆で行う集団瞑想とは別に別棟で行う個人瞑想が毎日必ずあった。
仏塔(pagoda)の中にある独房(cell)の中で、2〜3時間行うのだ。
若干、閉所恐怖症(claustrophobia)気味の自分としてはこれは当初、かなり堪えた。
プリズンブレイクの懲罰房を思い出されたい。
ここでは当然、時計がないため、時間感覚をすぐに失う。
時間は流れているのか、止まっているのか把握できない。アインシュタインの「相対性理論」を吟味するには恰好の環境である。
時間でさえ、あくまで「相対的」なのだ。

それを「体験知」として理解する。
体と精神、二元論。古代から交わされてきた議論。ライプニッツの「単子論」。
それがまったく別個のものであったとしても、不可分なものであったとしても、精神をもって体に打ち克つこと。真に自分の支配者となること
こんなことをグルグルと考えていた時、スティービー・ワンダーの'To Feel the Fire'のサビが頭に流れた。
Cause when I look inside my heart and I tell the truth to me, loud and clear my soul cries out with total honesty. I need the fire, fire, fire, to keep me warm. I got to feel the fire. (心の中を覗き込み真実を告げる時、完全な正直さと共に魂は高々と叫び声を上げる。熱を失わないために炎が必要なんだ。炎を感じるんだ)
体でもいい、精神でもいい、魂がそこで叫び声を上げていることを感じる。 
瞑想をはじめて3日間が過ぎた。まだ1週間残っている。

自分の中に誰も入り込めない堅牢な砦を打ち立てる」これを目標にする。当然、一週間で砦なんて出来ないかもしれない。まして一生かかっても。
「千里の行も足下に始まる」、まずは一つの釘を心に打ち込むことから。

【瞑想記一覧】
■出発する直前
■インドへ到着
■いよいよ修行開始
■修行の後半戦
■最終日