Each day is a little life: every waking and rising a little birth, every fresh morning a little youth, every going to rest and sleep a little death. - Arthur Schopenhauer

2012年9月11日火曜日

読書『ナショナリズムの力: 多文化共生世界の構想』白川俊介著


先生に薦められた白川俊介さんの『ナショナリズムの力』読みました。
白川さんはまだ29歳なんですね、若い。

タミールの『リベラルなナショナリズムとは』を読んだばかりだったので、内容が滑らかに頭に入ってきました。

今著でもコスモポリタニズムとは一定の距離をおきつつ、リベラリズムの系譜学的変容、ナショナリズムと結びつくまでの道程がわかりやすく論じられています。

骨格としては
リベラル・ナショナリズム論は、リベラル・デモクラシーの理念や政治枠組みがナショナリティに支えられていることを強く自覚し、またそれを積極的に評価する。
「多文化共生」を構想するうえで、ナショナリティ・国民国家・国境線は単に障害でしかなく、乗り越えられるべきものなのだろうか。ナショナリズムと共生は一見すると相反するもののように思われる。だが、ナショナリズムには、リベラル・デモクラシーを下支えし、多文化共生を支える力もある。
リベラル・ナショナリストは、従来のリベラルの想定してきた無属性的な負荷なき自我観および文化中立的国家観を批判し、リベラル・デモクラシーの政治枠組みにはナショナルな文化が不可避的に反映され、そのことによって政治枠組みを安定的なものにし、また個人は、みずからになじみ深い政治枠組みのなかで善き生の構想を自由に探求できるという。 
【「雑居型多文化共生世界の構想」と「棲み分け型多文化共生世界の構想」】
単一のリベラル・デモクラシーの枠組みにおいて人びとが暮らす「雑居型」ではなく、それぞれのナショナルな文化に根ざした、個別的かつ多元的な政治枠組みが構想され、お互いを尊重しながら共存するという「棲み分け型多文化共生世界」の構想が立ち現れてくる。
【「社会構成文化」(societal culture)】 
「公的領域と私的領域の両方を含む人間の活動のすべての範囲ーそこには、社会生活・教育・宗教・余暇・経済生活が含まれるーに渡って、さまざまな有意義な生き方をその成員に提供する文化」であり、この文化は「それぞれが一定の地域にまとまって存在する傾向にあり、そして共有された言語に基づく傾向にある」
【LDのバッテリーとしてのナショナリティ】
社会正義や民主主義などが安定的に機能するためには、当該の政治社会に信頼関係や連帯意識が成立していなければならないということであり、それらは親族・社会階級・宗教・民族などの絆を越えるネイションへの帰属心によってもたらされる。この意味でナショナリティとは、リベラル・デモクラシーの政治枠組みを安定的かつ持続的に起動させるいわば「動力源」である。 
【「非自発的アソシエーション」by マイケル・ウォルツァー】
それは簡単には離脱できないような、一定程度閉じられたものである。「」は構成員をそこから離脱できないように道徳的に束縛する。閉ざされた空間のなかで他者とともに生き、相互に扶助しあうといった社会的協働の基礎を生みだす。ウォルツァーは「交互に支える用意のある相互支援の政治体制がなければ、自由な諸個人からなる政治体制は存在しえないだろう」という。
さいごにアイザイア・バーリンのコスモポリタニズムに対する警句
「所与の共同体に属し、共通の言語、歴史的記憶、習慣、伝統、感情などの解き放ちがたい、また目に見えない絆によってその成員と結ばれることは、飲食、安全や生殖と同様に、人間が基本的に必要とするものである。ある国民が他の国民の制度を理解し、それに共感できるのは、みずからにとってその固有の制度がどんな大きな意味を持っているのかを知っているからにほかならない。コスモポリタニズムは、彼らをもっとも人間らしく、また彼らが彼らたるゆえんを捨て去ってしまうのである」
このタイミングでこの本と巡り会えたことはぼく個人的には大きい。
卒論の核というか、教科書になりそうな本です。 

読書『リベラルなナショナリズムとは』ヤエル・タミール著


イスラエルのテル・アヴィヴ大学の政治哲学教授であり、イスラエル労働党の著名な政治家、2006年にはイスラエルの教育大臣も務めたイスラエルの平和運動家ヤエル・タミールが著した『リベラルなナショナリズムとは』を読みました。
「主権国家を持ちたいという要求は、領土や住民を巡って相互に競合する。しかし、どのネーションの主張を取り上げるべきかという選択を不要にして、多くの国籍、文化的伝統、また文化集団を包摂するトランスナショナルな共同体を作り、そこにおける政治権威の配分を調整できるようにすれば、さらに、そのような配分の選択がある種の補完性原理により導かれるのであれば、ネーション相互の二者択一性は大きく緩和される。つまり一者のアイデンティティが必然的に他者のアイデンティティの犠牲の上で承認される、という状況は解消される」
ヨーロッパの場合は、こういった地域機構が、スコットランド人、バスク人、コルシカ人、ウェールズ人などの小さな「国家無きネーション」に対して、欧州共同体に留まりながら文化的、政治的な自治を発展させることを可能にしている。

【公民教育とナショナルな教育】
市町村、国家であれ、地域機構、グローバル社会であれ、多様なネーションが織り成す政治システムにおいては、子供たちすべてが、異なったライフスタイルを持つ他者、異なった価値観、伝統を持つ他者への尊重を学び、他者を同じ政治システムの成員として対等に見ることがとりわけ重要である。このような広薄な層を土台にして、ナショナルな集団の各々は若者たちに自身の共同体、歴史、言語、伝統についての知識を授けるべきである。従って、公民教育をナショナルな教育から分けることが、平和な多文化社会を持続させるための最重要項目である。
【オプティミスティックなのだろうか?】
われわれにはまだ、現実的な楽観主義を抱く余地が残されている。南アフリカ政治の展開、イスラエルとその隣人とくにパレスチナ人との和平プロセスの穏やかな進展、さらにアイルランドにおける妥協案への初の調印という成果は、リベラル・ナショナリズムが抽象的理論を越えた何かであることを物語っている。リベラル・ナショナリズムは、理論から現実へと変わり得るのである。
【胎動するナショナリズム】
例えばエストニア人、ラトヴィア人、ロンバルディア人は、共産主義体制や西欧国民国家によって強いられた長い昏睡状態から目覚め、筋肉を動かし、民族独立の旗の下で行進を始めている。
【本著の主張】
すなわち、個人の自立、反省、選択を尊重するリベラルな潮流と、所属、忠誠、連帯を強調するナショナルな潮流は、相互に排他的であるという見方が広まっているけれども、実は互いに一方が他方を包摂しうる関係にある。リベラルは、所属、成員性、文化的な帰属の重要性と、それらに由来する個別の道徳的義務の重要性を認めてもリベラルであり続けることができる。ナショナリストは、個人の自立の尊さ、また個人の権利や自由の尊さを認めてもナショナリストであり続け、国民内部あるいは諸国民間における社会正義にコミットし続けることができる。 
【文明化のプロセスに伴う人間観の展開 by ギアツ】
単純な仮想(masquerade)から仮面(mask)へ、役割(personage )から人間(personne)へ、名前へ、個人へ。さらに個人から形而上的・道徳的価値を有する存在へ、そして道徳的意識をもつ存在から聖なる存在へ。聖なる存在から、思想と行動の根本形態へ。このようにしてこの過程は完結した。
 【原子化された自己と状況づけられた自己についてー二極化する人間観】
ナショナリズムとリベラリズムは、共に近代の運動である。双方とも、自由で合理的かつ自律的な人間は、自らの人生の処し方に対して完全な責任を負う能力を持っているという見解を共有しているし、また、双方とも、自己支配、自己実現、そして自己発展を成し遂げうる人間の能力への信仰を共有している。こうした幅広い合意にもかかわらず、ナショナリズムとリベラリズムとは、こうした人間の特質をどう解釈するべきかという点で極端なまでに相違なる解釈を展開してきた。
【「文脈づけられた個人」 'Contextual individual' 】
という人間観は個人性と社会性とを、二つの等しく真正かつ重要な特徴として結び合わせている。それは文化的社会的な成員資格がもつ、拘束的で構成的な特徴を認識しているリベラリズムの解釈を許容すると同時に、個々人を共同体という枠組みにおける自由で自律的な参加者と考え、ナショナルな成員資格を、ルナンの用語で言うところの日々の人民投票と考えるナショナリズムの解釈をも許容する。文脈づけられた個人という概念は、このようにして、リベラルとナショナルの諸理念を相互に一歩近づける
【特定の政治的責務が有するアソシエーション的本性】
アソシエーション的な責務の引き受けは、帰属の感情、および自己とアソシエーションとを同一視することに依存する。かくして、政治的責務に対するアソシエーション的なアプローチは、個々人がそうした責務を引き受けるのが、彼らが国家を彼らの国家と見なし、その法を彼らの法と、その政府を彼らの政府と見なすからである、ということを示唆する。ラズ「彼らの属する社会を自分と同一視し、自分自身を法に服従する責務の下にあるべきものとー彼らは法を、こうした態度を表現するものと見なすー考えるのである。この態度は同意ではない。たぶん、それは特定の時点における特定の行為によって開始された何かではない。それはおそらく、ある共同体への帰属の感覚を獲得してそれを自分と同一視するプロセスと同じくらい長い、ひとつの漸進的なプロセスの産物である。
結論として
未解決のままに残された問いがあるとすれば、それは、ナショナリズムが憎悪に満ちた自民族中心主義の装いを持つことになるのか、あるいはリベラルな諸価値に対する尊重によって導かれるところの、醒めたヴィジョンとなるのかという問いである。 
訳者あとがきより
リベラルの側は、選択の自由が無限であるという幻想を捨て、選択の自由は個別の文化に浸ったという原体験と、選び取るべき個々の文化(の保全)があって初めて可能となるという事実を認識する必要がある。一方、ナショナリストの側は、血と地のレトリックから自らを解放し、個人の自由と選択が不可侵な権利であることを再確認する必要がある。そのような融和の結果として生み出されるのがリベラル・ナショナリズムなのである。 
ズバッと。

2012年9月6日木曜日

読書『正義のフロンティア:障碍者・外国人・動物という境界を越えて』マーサ・ヌスバウム著


ひさびさに読んだ本でも振り返ってみたいと思います。
マーサ・ヌスバウムの『正義のフロンティア』。

ロールズの『正義論』、『政治的リベラリズム』、『万民の法』を中心テクストにそれらで呈示された諸概念(「無知のヴェール」や「格差原理」など)を批判的に捉え直し、むしろそれを脱構築することで、これまでの伝統的な契約主義者の前提条件から排除されていた主体(障碍者・外国人・動物)をも包摂するような正義論を構築することが本著の主題。

これまでの社会契約主義者たちは、正義の中心主体は「自由かつ平等かつ別個独立の人びと」の相互有利性のみを想定してきた。
ただ、それで本当の正義は達成されうるのか、と疑問を呈したのが筆者の問い。

社会契約の伝統は「社会の基本的諸原理は誰によって設計されるのか」と「社会の基本的諸原理は誰のために設計されるのか」という、原理的に異なる二つの問題を融合している。
社会契約およびその目的に関する構想を全体的に変えない限り、別個独立の想定は、平等の想定と同様に、容易には変更しえない。それというのも、この構想が描いている当事者はそれぞれ、相互協働の利益を得るために自らの特権の一部を犠牲にすることに意欲的な、各々が生産的な個人だからである。
そして批判対象のロールズの正義論の尺度として用いられているのは「富」と「所得」である。これでは上記のような主体は排除されていしまうので、筆者が新しいアプローチとして提唱するのが「可能力アプローチ」と呼ばれるもので、具体的なリストとして以下の10点が挙げられている。


①生命
②身体の健康
③身体の不可侵性
④感覚・想像力・思考力
⑤感情
⑥実践理性
⑦連帯
⑧ほかの種との共生
⑨遊び
⑩自分の環境の管理
可能力アプローチが契約主義よりも正義の問題に対して柔軟に接しうるのは、それが結果指向の理論であって手続き的な理論ではないことを理由のひとつとしている。
障碍者が契約理論の前提から排除されてしまっていることを「契約理論の不快な特徴」と筆者は切り捨てている。
人々はが他者と集って基本的な政治原理のために契約するのは、ある特定の諸状況、つまり相互便益が期待でき、かつ全員が協働から利益を得る側にある状況においてのみである。通常ではない費用がかかる人々や、集団の福利への貢献度がたいていの人々よりもはるかに低いと見込まれる人々を初期状況に含めることは、この理論全体のロジックに反することになるだろう。もし人々が相互有利性のために協働的な制度を編成しているならば、協働を通じた利得があると期待しうる相手と集いたいだろうし、社会的生産にほとんど何も寄与しないにもかかわらず、例外的で高額な費用がかかる配慮を要求し社会の福利レヴェルを引き下げる相手とは、集いたくないだろう。
また、リストは多元主義と寛容とも分かちがたく結びついており、以下の点も筆者は肉付けしている。
①リストは可変的で継続的な修正と再考を免れないものだと理解されている
②リストの項目は、まさに各国における市民たちおよび議会と裁判所による明確化や熟議といった活動の余地を残すために、やや抽象的で一般的な仕方で定められている
③リストは独立の「不完全な道徳的構想」を表すものであり、政治目的のためだけに導入されている
④適切な政治目標は可能力であって機能ではないことを強く主張するならば、国際領域においても多元主義は保護される
⑤言論の自由、結社の自由、良心の自由という、多元主義を保護する重要な自由が、リストの重要な項目になっている
⑥可能力アプローチは、正当化の問題と導入の問題を厳格に区別する
とりわけ注目しておきたいのが、可能力アプローチと「教育」の関係性であり、筆者もその重要性を特筆している。
あらゆる人間の可能力の鍵は教育である。また教育は世界でもっとも不平等に分配されている資源のひとつである。民主主義にとって、人生の享受にとって、自国内部の平等および社会的流動性にとって、そして国境を越える実効的な政治活動にとって、教育よりも重要なものはない。教育は役立つ専門技能を与えてくれるものとしてのみならず、同時にもっと重要なこととして、人間を適切な情報、批判的思考、そして想像力を通じた全般的にエンパワーメントするものとしても、理解されるべきである。
またミルやベンサムなどが支持する「功利主義」もこのアプローチとは相容れないものとして批判対象に含まれる。
功利主義は共同体をひとつの超人格として扱うことを通じて、またこの単一構造内におけるあらゆる満足は代替可能なものであると見なすことを通じて、諸個人と彼らの生が根本的に別個であることを無視しており、それらを「権利と義務がそれに従って割り当てられることになる数多くの系列」として扱っている。
ベイツやポッゲのグローバル・ジャスティス論にも言及しており、「グローバルな構造のための10の原理」 として以下のものを列挙している。
①責任の所在は重複的に決定され、国内社会も責任を負う。
②国家主権は、人間の諸々の可能力を促進するという制約の範囲内で、尊重されなければならない。
③豊かな諸国はGDPのかなりの部分を比較的貧しい諸国に供与する責任を負う。
④多国籍企業は事業展開先の地域で人間の諸々の可能力を促進する責任を負う。
⑤グローバルな経済秩序の主要構造は、貧困諸国および発展途上中の諸国に対して公正であるように設計されなければならない。
⑥薄く分散化しているが力強いグローバル公共圏が涵養されなければならない。
⑦すべての制度と(ほとんどの)個人は各国と各地域で、不遇な人びとの諸問題に集中しなければならない。
⑧病人、老人、子ども、障碍者のケアには、突出した重要性があるとして、世界共同体が焦点を合わせるべきである。
⑨家族は大切だが「私的」ではない領域として扱われるべきである。
⑩すべての制度と個人は、不遇な人びとをエンパワーメントするさいの鍵として、教育を支持する責任を負う。
結論は以下のよう。
相互有利性のみを接合剤とするリベラルな社会の像には特異な歴史的起源があり、またそのような像のみが有効であったわけではないということを、私は示してきた。
想像力に富んだ勇気がなければ、こうした三つの領域が突きつけるとてつもなく大きな困難を前に、公衆の皮肉と絶望とが残るだろう。だが、可能であるかもしれないことに関するいくつかの新しい像があれば、これらのフロンティアに少なくとも接近することができるのであり、また哲学の理論がこれまで頻繁に承認してきた世界よりもはるかに複雑で相互依存的な世界における正義は何でありうるのかについて、創造的に思考することができる。

2012年8月28日火曜日

映画『おおかみこどもの雨と雪』


念願の『おおかみこども』みました。

どこまでもみずみずしい映画。
ありえないシチュエーションなのに入り込んでいけるように、細かい設定がなされてて、製作者の心配りを感じずにはいられなかった。
清く澄んだ心と心がぶつかり合って、だからこそ切なくて。
純粋で健気なオオカミ少女と少年。健気に優しく、でも力強く見守る母。
美しい大自然。

おそらくアマラとカマラのインスピレーションをうけているんでしょうね。

週末にでも『サマーウォーズ』みかえそうと思います。

2012年8月22日水曜日

映画『アヴェンジャーズ』


アヴェンジャーズ』という名前の映画『インクレディブル・ハルク2』を観た感じ。笑
全米では圧倒的な興行収入を誇っているそうです。
かーなり突っ込みどころ満載で、食い入るようにみてしまいました。
コメディ要素織り交ぜつつ、アクションはド迫力。これは老若男女楽しめる。


トレーラー

ぜひ3Dでみることをオススメします。

キャラクター関係相関図

週末を利用して『アイアンマン』観ようと思います。

2012年8月15日水曜日

2012 ロンドンオリンピック 昼夜逆転生活


約一ヶ月に渡ったロンドンオリンピックが閉幕しました。
スポーツが大好きな自分としては少しさみしい気持ちですが、オリンピック期間中は昼夜逆転の不規則な生活を送っていたのでいよいよいつも通りの日常に戻れそうです。
日本としては過去最多のメダル数38個ということで、いつにもない盛り上がりをみせていました。

自分が最も注目していたのはやはり男女サッカー。
男女ともに予選から全試合観戦しました。


香川・宮市の選出がなく、一時はどーなることかと思われましたが、オーバーエイジで選出された吉田・徳永がチームにベストフィットして、DFが安定したことで、予選リーグを見事一位通過、準々決勝でも3-0でエジプトを破るなど快進撃をみせてくれました。
今回の大会をきっかけに、永井を筆頭にかなり注目が集まったみたいだし、オファーもたくさん届くんじゃないでしょうか。こうやって日本サッカーで好循環が続くことが嬉しいです。


女子に関してもほとんど言うことなしです。決勝ではアメリカに敗れましたが、相手のトップ下ロイドのコンディションが良すぎた。サイボーグみたいでした。あれだけのパフォーマンスをコンスタントにできるならJ2やJFLでプレーできるんじゃないか。笑
女子もDFライン、特にセンターバックがしっかりしていて、もはや往年のネスタ、マルディーニみたいな安定感でした。


あと、近賀さんの運動量も目立ってたなあ。やっぱりサイドバックの運動量がチームの強さを象徴するのかも、長友にしても。
負の点で言うと、後半になると頻発する鮫島さんのケアレスミス、あとはキーパー福元のゴールキックの弱さ。

フランスとの親善試合でフランスのフォワード、ウイングの速さ・強さを目の当たりにしていたので、大会本番も危惧していたのですが、やっぱりサッカーは「個」ではなくて「組織」が勝つスポーツなのだと再認識させてくれました。

その他のスポーツも普段みれないですけど、熱狂しました。

地球上で最も運動神経の良い男子に認定された内村

決勝では惜しくも10位に終わったディーン元気。僕の仮想ライバル。笑

やっぱりやってくれたスポーツ界の権化・室伏

 フェンシング太田かっこよすぎた。


北島は残念だったけど、最強メンバーで獲った銀メダル

卓球も銀メダル。中国強すぎた。

世界各地に友達がいると何が良いって、当地に行った時に泊めてもらえるのももちろんのこと、やっぱりオリンピックのような国際大会のときですよね。対戦相手として当たる時の煽り合い、そして試合後にお互いを讃えたって、こちらの親交も深まっていく事。
フェイスブックでいちいちメッセージ送ってくるんですよね。笑
サッカーの準決勝のときもメキシコの友達からメッセージがきました。

ボルト。二大会連続の3個の金メダル。伝説。


選手のインタビューをみていると感極まる思いになりますよね。あらゆるものを犠牲に、人生を賭けて時間を惜しみなく練習に捧げた四年間。言葉の端々に、濃縮された苦難の毎日が伏流してるようで。残酷だけど、美しい。

四年後はリオ。四年間ってまた絶妙だなあ。たのしみで仕方ないです。












2012年8月6日月曜日

生命体としての「国家」



「国家」とはいかなるものであるか。これまでにもその相貌を明らかにすることを企図した、野心ある試みが多くの明敏な知識人によって歴史を通じてなされてきた。プラトンの『国家』、キケロやスピノザの『国家論』など例をあげれば枚挙にいとまがない。ところが古代からこれまでになされてきたこのような分析の理論的基盤は多くの部分で自己完結的なものであった。たとえばアリストテレスは『政治学』において国家を各器官を有した動物になぞらえて論じたが、彼がそこで射程にとらえていた構成要素は農民、手工職人、アゴラ、日雇労務者などの国家内部の在り方であった。言い換えれば、いわゆる統治論や内政的秩序論と等置されるようなきわめてミクロな視点で語られてきたのである。

グローバル化が進展をはじめて久しい今日において、この伝統的なテーマである「国家論」をますます空間的・時間的・文化的に稠密化する国際社会の視角から再考を加えて検討すれば違った国家の姿が浮かび上がるだろう。「保護する責任」をはじめたとした正当な介入の論議が活発化する現代はカントが未来を預言していたような「すべてが感知される時代」にいままさに私達がいることを示唆しているのかもしれない。トマス・ポッゲが論じるようなグローバルな正義、遠くの貧しい人にグローバルシティズンとして負う義務。そこで改めて「国」とは何かを考えてみたい。

国家は複合的でいて、動態的な存在である。その実体を一面的に捉えることは困難である。「人間」そのものを論じようとする際に、生物学的見地からみた人間の肉体部、形而上学的な魂をはじめとした人間の精神部を分けることが有効なように、国家に対する包括的理解を得ようとするならば、構造を截然と峻別し、各部を検討するのが最善の策と思われる。
アリストテレスはメタファーを賛美し、それだけが私達の思考を一歩先へと進めてくれる道具であると言って憚らない。
もっとも偉大なのはメタファーの達人である。通常の言葉は既に知っていることしか伝えない。我々が新鮮な何かを得るとすれば、メタファーによってである『詩学』
国家を私達と同じように有限の命を有した「生命体」として捉えて、国家体がもつ各部位について考えを押し進めていきたい。国家をわたしたちと同じような人体をもった有機体というアナロジーで捉え直すことで、その巨大な全貌に近づけるような理解を得たい。もしこのようなアナロジーが成立するならば、人間界において培われてきた叡智・処方箋の幾ばくかを国家運営、国際政治に応用することができないものか。人と国家の袂を分かつ最大の要因はなにか。何を治療できて、何を治療できないのか。現代においても重病とされ、治癒困難な癌。国家間における「戦争」とは癌のような逃れようのない病理として捕捉されること常である。キケロは「最も正しい戦争よりも、最も不正なる平和をとらん」と述べたものの、彼の時代から今の私達の時代まで「戦争」は不断なく生起し続けてきた。




否、正戦論の脈路は滔々と受け継がれ、アメリカの対アフガン・イラク戦にみえるように、むしろその傾向はますます強まっているとさえいえる。とはいえ、「癌」にしろ「戦争」にしろ、それらを十把一絡の便法として論じると、情況を正確に捉え損なうことになる。たとえば癌であるが、その言葉の重みがもつ悲壮感・絶望感とは裏腹に、その種類や発見時期によっては治癒が可能である。ちょうど結核がその昔まで不治の病だったように、医学の進歩と並行して数々の不治の病がリストから姿を消すに至っている。戦争についても同様のことがいえる。『危機の二十年』でカーが述べたように、第一次世界大戦の後、萌芽の兆しをみせた平和主義もその甘さにつけ込まれ、標榜していた理想は第二次世界大戦の勃発と共に儚くも無惨に破砕された。

国際政治学の伝統的な潮流であるリアリズムが規程するように、国家の最優先関心事項は「国益」であり、その方策として有効ならば戦争は正当化されうる。ましてや、囚人のジレンマの情況が国際関係のアリーナで克服されない限り、戦争が不治の病のリストから消えることなどありえないと喝破するのだ。たしかに「ホッブズ的恐怖」に託けたリアリズムの主張について全面的な否定はしがたい側面があるように思われる。では、二十世紀後半から唱えられはじめた民主的平和論はいかなる意味をもつのだろうか。異論・批判は渦巻くものの、正当性を裏付けるようなデータを提示される度に、戦争が終焉への歩みをはじめたとの希望をかされる。フランスの小説家ジュール・ヴェルヌの言葉が胸を反芻しながら。
「人間が想像できることは、人間が必ず実現できる」  (ヴェルヌが父親に宛てた手紙の一節)

行政組織が不整備のままで、主権の所在も明確ではなく、地図さえも存在しなかった古代において思想家たちの喫緊の解決課題は空間的に限定された土地(コミュニティ)における秩序の安寧であった。ホッブズの『リヴァイアサン』、ルソーの『社会契約論』、ロックの『統治二論』などはいずれもそうした点を最大の係争点として思量を重ねている。ルソーも国家間関係をまったく度外視していたわけではなく、以下のような考案もしていた。


「すなわち各国家は、それ自身の境界内で、その社会の一般意志のはたらきによって秩序を達成し、国家相互間の関係においては、接触を最小化することによって秩序を達成する世界である」

現在わたしたちの社会で当たり前となったインターネットなど存在しなかった時代に、ルソーがこういった小規模の自己完結的な国家からなる世界を構想していたとしても無理はないだろう。

たしかに当時から国境を隔てた領土紛争は絶えず行われていただろうが、現代の私達が直面するようなグローバル規模での戦争とはイメージの乖離があるだろう。
人間が絶えず文明的な進化を遂げてきたように、国家内部・外部においても劇的な変容があったことに疑いはない。故に、現代国家を論じるにはより広量的視野が求められる。グローバル化を通じて稠密化したネットワークを通じて、国家間のコミュニケーションは過去に類を見ないほど増大した。
グローバルレベルでのインタラクションが増すことそれ自体は讃美されるべきことかもしれないが、同時に多くの負の側面が指摘される。宗教間・文明間衝突(ハンチントン)、経済的格差(スティグリッツ)、国際テロリズム等など。

兎に角、他者との密度の濃い接触は当者に自己規定を強く求める。他者性を無視してアイデンティティを論じることはできないだろう。絶え間なく移りゆく環境、一方向に流れていく不可逆の歴史、偶有性の海に漂うのは人間のみならず、国家も同様である。国家それ自体が一人一人の人間の群衆を束ねた巨大な個体である。たとえば仮にベトナム戦争を立案したのがジョージ・ケナンだったとしても、責任は「アメリカ」という国家に、あたかも実体を伴うかのように帰着される。



『ローマ帝国衰亡史』から語り継がれてきたように、国家にも寿命があり、歴史は「盛者必衰の理」を常に呈示してきた。アイデンティティをもたない国家は独善的主体である。古代国家ではいかに国家内部の叛逆分子を抑えこみ、上層部の既得権益を死守するかだけを顧慮すればよかったのだ。ヘーゲルも国家を論じる際には内的・外的の両視点が必要不可欠であることを認識していたものの、彼の時代にあっては依然、その内部要因が相対的に強い地位を維持していた。
私法および私的利福の領域、家族および市民社会の領域に対して、国家は一面では外的必然性であり、それらの領域より高次の力であって、その本性にそれらの領域の利害と同様に法律も従属させられ、依存させられる。しかし、他面では、国家は、それらの領域の内在的目的であり、国家はその強さを、普遍的な究極目的と諸個人の特殊的利害との統一において、すなわち諸個人が諸々の権利をもつかぎり、同時に国家に対する諸々の義務をもつという点においてもつのである。『法の哲学
ところが二十世紀、二十一世紀と時代を経るごとに国家間の関係性はより緊密なものとなり、あたかも国家ひとつひとつから成るような国際社会が存在するにいたった。(ブル)そこにおいては、国際的な規範や行法が自然発生的に生じ、同じ政治的性格を有する国家、例えば民主国家間においては戦争が生じにくいことを指摘したデモクラティック・ピース論がある。


ヘーゲル「即時的かつ対自的な国家は人倫敵全体である。<中略>国家が存在することは、世界における神の歩みにとって必須の事柄なのだ」『法の哲学』

もし仮に国家も私達と同じように脈打つ生命体なのだとしたら、限りある時間の中で呼吸し、行動し、苦悩や歓喜を覚えながら生の意味や存在の価値を追い求める「人間」そのものなのである。


一時の不安や希望。過去に縛られ、未来に思いを馳せ、不安定な現在を手探りで進む儚く脆い存在なのである。

Cf.
ジル・トゥルーズ「器官なき身体」
丸山眞男「イメージが作り出す新しい現実」
フランシス・フクヤマ「弾力性のある欲望」
アリストテレス「動物と国家のアナロジー」