Each day is a little life: every waking and rising a little birth, every fresh morning a little youth, every going to rest and sleep a little death. - Arthur Schopenhauer

2011年10月19日水曜日

読書『生物から見た世界』ユクスキュル著

生物から見た世界 (岩波文庫)

久方ぶりに自然科学よりの本を読みました。『生物から見た世界
筆者はエストニア出身のドイツ生物学者のエクスキュル
難解なタームがいくつか出てきますが、わかりやすい図がその都度合わせて書かれているので大丈夫です。

人間が普通、捉える世界や環境とは違う視点。環境の中に客体として存在する生物たちを主体としたときに見える環境のあり方について述べられた本。
あとがきにもこのようにあります。
客観的に記述されうる環境だが、その中にいるそれぞれの主体にとってみれば、そこに「現実に」存在しているのは、その主体が主観的につくりあげた世界なのであり、客観的な「環境」ではないのである。
この記述は生物学の限界も示唆しています。いくらわたしたち人間が絶え間ない観察や考察を通して、生物の眼鏡から環境を覗こうとしても、観察者たる人間のフィルターは避けられないということです。

生物が自然環境の内からどのように世界を見つめ、生活を営むのか。
種々多様な生物のグラスから覗いたミクロな考察視点は大変に興味深いです。

とりわけぼくが興味を抱いたのはエクスキュルの「時間」の概念に関する記述です。
時間はあらゆる出来事を枠内に入れてしまうので、出来事の内容がさまざまに変わるのに対して、時間こそは客観的に固定したものであるかのように見える。だがいまやわれわれは主体がその環世界の時間を支配していることを見るのである。これまでは、時間なしに生きている主体はありえないと言われてきたが、いまや生きた主体なしに時間はありえないと言わねばならないだろう。
それぞれのうちの中で絶対的真実として、時間は時を刻みます。
だれしもに平等な時間が流れているという暗黙的真実の元。
ただそれに異を唱えたのがアインシュタインであり、相対性理論を提唱した学者たちです。
それは真実なのではなく、あくまで「感じ方」なのだと。
楽しい時間はあっという間に過ぎ、退屈な時間の流れは永遠のように感じます。

つまり「時間」は時間の内側を生きる主体あっての概念なのです。
瞬間の連続である時間は、同じタイム・スパン内に主体が体験する瞬間の数に応じて、それぞれの環世界ごとに異なっている。瞬間は、分割できない最小の時間の器である。なぜなら、それは分割できない基本的知覚、いわゆる瞬間記号を表したものだからである。すでに述べたように、人間にとっての一瞬の長さは18分の1秒である。しかも、あらゆる感覚に同じ瞬間記号が伴うので、どの感覚領域でも瞬間は同じである。 


わたしたちを取り囲む自然・環境、そのうちで起こる様々な事象。
その出来事の連鎖の中で我々の感性は研ぎ澄まされ、目にした経験や出会いで人格は形成されていきます。
「物事は捉え方しがい」とは常套句ですが、「知覚」はいかなるプロセスを経ているのでしょうか。次の図を見てみてください。


これは、ある人間がものごとを知覚する際に、相互に密接に関連し合う様々な事象を説明したものである。ある人の前に鐘を置いて、それを鳴らすと、それはその人の環境に刺激源として登場し、そこから空気の波がその耳に達する(物理的過程)。耳の中で空気の波が神経の興奮に変えられ、それが脳の知覚器官を刺激する(生理的過程)。すると鐘の知覚記号のよって知覚細胞が働き、一つの知覚標識を環世界に移す(心理的過程)。
このように、「知覚」という動作ひとつをとってもの様々な細かい動作を経た後に行われるアクションであって、すべての客体のうちに画一的に行われるわけではありません。
これが人間、ひいては生物のうちに多様性を生み出す要因になっているのかもしれません。

訳者は「あとがき」の後半部で、この本を訳してみた感想としてこのように述べています。
とにかく動物には世界がどう見えているのかということではなくて、彼らが世界をどう見ているのかを述べていることがわかった。
大学生ブログ選手権

0 件のコメント:

コメントを投稿