「天地創造」について創世記によれば、神は一日目に光と闇を創り出し、二日目に空を創った。三日目には、地と海を創造し、四日目に月・星・太陽を配した。五日目は、海に魚類を、空には鳥類を据えた。六日目、地上に獣、家畜を産み落とし、最後に自分の姿に似せた「人間」を男女に分け登場させた。第七日目は、お休みになられた、安息日である。
私たちの想像を遥かに越えたもの、生前に完結してしまったストーリー、今はもう存在しない絶滅危惧種、語られる歴史、鶏と卵。
体験として受け取ることのできないもの、教科書を貪り食うように耽読しても見えない。
それは、それとして呑み込んでいくことしかできない。
だれかの想像力に頼りながら、寄り添いながら、時を過ごしていくこと。
「宇宙」が一番広い場所って固定概念さえも塗りつぶしてくれる、飲みこんでくれる。要するに、想像力が固定観念を凌駕して、飲み込んでいくっていうことで。
そのことに関しては、Mr.Childrenの"I'll Be"という曲のなかでも同じことが唄われています。
今日はゾウ、明日はライオンってな具合に心はいつだって捉えようがなくて、そんでもって自由だ。それでもぼくは、思ったんです。
ぼくらは決定的な足枷を想像力に纏っていると。
ぼくらに見えるのは、見えるもの。
聞こえるのは、聞こえるもの。
感じれるのは、感じれるもの。
「人が想像できることは、必ず人が実現できる」っていう有名なヴェルヌの言葉があります。
ぼくらの背中を押してくれ、ときに胸の震える言葉でもあります。
ただ、裏返すと、想像できることしか、実現できないのです。
ただ、宇宙が現実界で最も広い場所であるという仮説そのものが、想像力の桎梏の証左に他ならないと思うのです。
もしも宇宙が何層にもわたるプレートのようなものだったら、宇宙空間は数多存在していて、ぼくらがイメージする「宇宙」はそのひとつに過ぎないとしたら?
宇宙の中にある月、地球、太陽、天体や惑星。宇宙を包むまた上位スペースがあるとしたら。
想像力の源泉を辿ると、誰かの想像力・体験に行き着くわけです。
「人が想像できること」ヴェルヌは何一つ嘘は言っていなくて、「想像できることしか、実現できない」んです。
それを真に、心から、認めた上で「想像力」の栽培ははじまります。
『アイデアのつくり方』でこうあるように
アイデアとは既存の要素の新しい組み合わせ以外の何ものでもない。
ウルルン滞在記などで、発展途上国から逆訪問で日本に来るみたいな企画がありました。
民族衣装を身に纏った、黒人の家族が目にするもの目にするものに口をポカンと開けて、驚嘆の声を上げます。
だから、ぼくはいつだって旅行に行くと、深く深呼吸して、目を閉じて、街路で果物を売るおばさんや、物乞いをしてずっと付いてくる少年に憑依しようとイメージを膨らませるのです。
もしもこの地で生を授かっていたら。ここで育ち、死んでいく。
そのプロセスを出来るだけ、具体的にイメージするんです。
そうすると、何のつながりもない目の前を闊歩していく人たちがいくぶんか身近で愛くるしい人々にみえてくるのです。
日本でも同じです。
地下鉄に乗っていれば、ヘッドフォンで音楽を聞く高校生、徒労で居眠りするサラリーマン、幸せそうな家族。
みんながみんな自分と同じように偶有性の海で泳ぐ儚い存在。
たった一度の人生、歴史上の偉人も、ぼくもあなたも、誰一人として人生を二度生きることを許可された人はいません。
だからこの限られた螺旋上で限りなく争いは繰り返されてきたし、これからもそれは恒久に変わりのないことなのかもしれません。
でも、想像力をバトンタッチしていくこと、積年、繋ぎあわせて行くこと。
限りのない、でも限られた想像力の欠片をただ、ひとつひとつ落ち葉をかき集めるように、束ねていく。
だからぼくは本やマンガを読むときも、映画をみるときも、音楽を聴くときも、誰かとお話するときも、新しい景色をみるときにも
「想像力」の種には貪欲でいて、謙虚でありたい。
そんな姿勢を生涯貫いていきたいと思うのです。
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